雪割草
「ちょっと、行ってくるかの」
光圀を一人で行かせるわけにはいかない。
早苗はすぐに男に姿を変え、主に従った。
「ですから、茂吉さん……」
どうやら話はもつれたようだった。
料理人の茂吉は腕を組み、しかめっ面。
対する女は、低姿勢で勧誘し続けている。
光圀はその女に穏やかに声を掛けた。
「奥様。こんな遅くに何か御用ですかな?」
「あ、いえ……」
気まずそうに彼女は視線を逸らした。
気まずい彼女を、早苗が追い詰めた。
「よろしければ、私がお送りしましょうか? 夜道は危ないですから」
とうとう女は逃げた。
「結構でございます。失礼します」
早苗は女が去る方向をじっと眼で追った。
女が去った後、茂吉は二人に頭を下げた。
「お客様、ご迷惑をおかけ致しました、申し訳ありません」
「お困りのようでしたからな。それより、お礼を。ご飯、とてもおいしかったですよ。ありがとうございます」
「いいえ、とんでもない」
早苗は、先ほどの女が街道の方へ消えるのをしかと見ていた。
「あの、さっきのお方はもしや?」
「……岩田屋の方です。私に店で働いてくれとしつこくてね。主人はいい人なのに…… あの人ときたら……」
迷惑そうに、残念そうに茂吉は話した。
しかし、多くを語ることは無かった。
「ごめんなさい、無駄話を。すみません、明日の仕込みがあるので失礼します」
すぐに仕事へと戻って行った。
部屋に戻るなり、光圀は早苗に謝った。
「……すまんの。格さんやらせてしまって」
「構いません。男でないとあのような場合、舐められますから」
万が一の場合、主を守るためにも男の姿は必要だった。
光圀もそれは百も承知。
しかし……
「そうじゃの。……ついでじゃ。肩揉んで貰おうかの」
思いがけない頼みに、早苗は少し驚いた。
「……私でよろしいんですか?」
「格さんの姿の方が、やりやすいであろ? 力はあるし、手が大きい」
「はぁ…… まぁ……」
手の大きさ、力の話しはあまりして欲しくない早苗だった。
しかし、光圀の以来の理由はそれだけではなかった。
「助さんは下手じゃ。人が気持ちいいのか痛いのか、分かっておらん」
「……鈍感ですからね。助さん」
それは許婚の性格で気に喰わない個所でもあった。
早苗は光圀の肩をもみ始めた。
すると、光圀は気持ち良さそうに眼を細めていた。
「……ほれ、やっぱり格さんの方が上手い。力加減がもう少し出来るといいが…… うっ……」
どうやら力を入れすぎたと見え、一瞬光圀の顔がゆがんだ。
慌てて力を緩めた所、今度は物足りないと指摘を受けた。
「……すみません。未だにこの姿での力加減がよくわからないんです」
「よいよい。そのうち分かるようになる。わしの肩揉みで特訓すればよい」
肩をもむ早苗に、光圀が静かに聞いた。
「……男の振りは辛くはないか?」
その言葉に早苗は手を止めた。
「……いえ、それほどでは。大分、慣れたつもりです」
「そうか…… じゃが、本当は助さんに早苗として見てもらいたいであろ?」
ドキリとした早苗だが、気丈に答えた。
「……いえ。仕事中ですからその様なことは言ってられません。あれの前で、私は格之進です」
そんな早苗を光圀は笑った。
「……素直じゃないのぅ。お前さん、水戸に変えるまで、ずっと男のふりをするつもりか?」
「はい。正体を明かすなど、とても……」
早苗はそのつもりだった。
彼の前で変わり身を解くことはしない。
もしすれば、彼の仕事に支障が出る。
「……解った。しかしの、辛くなったらすぐに言うのじゃ。よいな?」
「……はい。ありがとうございます」
それからもしばらく静かに光圀の肩をもんでいた早苗だったが、ふと主に相談したくなった。
「あの、ご隠居」
「なんじゃ?」
「助さんは…… 私、いえ、早苗の事をどう思っているのでしょうか?」
光圀は、穏やかに言った。
「……お前さんは、心配なのか?」
「……はい。妥協で結婚を申し込まれた気がするのです」
いつしか、早苗の手は止まっていた。
その手に光圀は手を重ねた。
「その様なことは絶対にない。心配せんでもよい」
「そうでしょうか?」
「助三郎に縁談は沢山来た。だが、片っ端から全部断っておった。母親から相談されたこともある」
「そうですか?」
「現に、わしから一件持っていったら、あれは直ぐに断った」
「……ご隠居のも?」
「そうじゃ。そこで理由を聞いた。すると、どうしても見合いはイヤだ。決めた人がいると言いおった。それが、お前さん。早苗じゃ」
早苗は少し気恥ずかしくなった。
「あいつ、そんなこと……」
しかし、彼女の不安な気持ちが完全に払拭されることは無かった。
彼の本当の気持ちを、彼が自分に結婚を申し込んだ理由を、彼女は知りたかった。
まだ少し暗い雰囲気の彼女に気付いた光圀は、とんでもない事を言ってのけた。
「早苗。もし、助三郎が浮気などしたら、斬りすてればよい」
「へ!?」
盛大に驚く早苗を見て光圀は笑った。
「わしが許す。藩命で打ち首じゃ。はっはっはっは!」
彼ならばやりかねない。
そう直感した早苗は引きつった笑みを浮かべた。
「……恐ろしいですね」
早苗は気を取り直し、主の肩を再び揉もうとしたが、
「ありがとう。もう良い。休みなさい」
大人しくその言葉を聞き、女に姿を戻して彼の前を辞した。
「……では隠居さま。おやすみなさい」
「お休み」
光圀はその小柄な姿を見送った。
それを拝見たくても拝めない助三郎を思い、彼の心が分からないと嘆く早苗を思った。
そしてその二人が上手く行くようにと、そっと願った。
そこへ弥七がやって来た。
しかし、彼は部屋の中には入らず、窓の外から声を掛けただけだった。
「……ご隠居」
「……お、弥七か。雨がまだひどいであろ? ここで休んでいかぬか?」
光圀の誘いを、弥七は断わった。
「お気遣いなく」
そして彼は逐一仕入れた情報を報告した。
「お銀によると、やはり岩田屋の飯は不味いとのこと。
そして、さっきの女は岩田屋の主の叔母。いやがらせの首謀者です」
この報告に、光圀は言った。
「……嫌がらせしているのは岩田屋と言う事で間違い無いな?」
「へい」
光圀は笑みを浮かべた。
「では、二人がいる間に、岩田屋に軽く仕置きをしようかの」
その言葉に、弥七はニヤリとした。
「いかがされるおつもりで?」
光圀は不敵な笑みで続けた。
「二人に、好きな様にやれと伝えてくれ」
弥七は早速二人の元へと向かった。
「怖いなぁ、ご隠居は……」
少しの後、弥七からの繋ぎを受けた助三郎は少々困っていた。
「好きにやって良いって…… 余計難しいよ」
いくら好きなように、仕置き、仕返しをして良いと言われても、やっていいことと悪いことはある。
その境目が難しく、助三郎は頭を悩ませた。
しかし、お銀は何とも気楽だった。