雪割草
「そうかしら? 何やってもいいのよ」
楽しそうにそう言ったお銀になぜだか身の毛がよだった助三郎は、彼女に仕事を押し付けた。
「なら任せる」
お銀は丸投げされた事を怒るどころか、好都合と言わんばかりだった。
「だったら、わたしが言う通りにやって頂戴」
彼女の計画を助三郎は黙って一通り聞くと、二人は明日の決行に備え床についた。
次の日、朝餉の直後から二人の『仕置き』は始まった。
お銀が大声を上げた。
「あなた、大丈夫!? どうしましょう!」
その声に気付いた仲居が、すぐさますっ飛んできた。
「お客様、どうされました!?」
お銀は、助三郎を畳に寝転ばせ、おろおろした様子で、仲居に言った。
「うちの人が、どうも朝餉に中ったみたいで…… とにかく、お医者様呼んでください!」
『医者』と言った途端、仲居は慌て始めた。
「本当に、本当に、この朝餉ですか?」
助三郎は苦しそうな芝居をして、仲居を追い詰めようとした。
「あ、当たり前だ…… この膳だ。これを食べたら、こうなったんだ…… うっ……」
一人でこの場を収められないと判断したのか、仲居はその場から逃げた。
「……少々お待ち下さい」
部屋にはお銀と助三郎の二人が残された。
転がっていた助三郎は、むくっと起き上がるなり、朝餉の膳の漬物をつまんだ。
「こら。まだ転がってなきゃダメ」
「まだ帰ってこないから大丈夫。しかし、漬物も美味くない。最悪だなこの宿」
文句を言う助三郎をお銀は急かした。
「ほら、早く寝転がって」
「……で、次はどうするんだ?」
「見てればわかる」
少しすると、仲居は女将をつれてやって来た。
「お客様、なにか差支えでも……」
「差支えも何も、朝餉に中ったの!」
「しかし、同じ物を宿中に出しております。他の部屋の方は何も……」
「でもね。現にこの人、苦しんでるでしょう」
お銀は女将とやり合いながら、こっそりとある物を取り出し、膳の上に乗せた。
そして、頃合いを見計らうと、叫んだ。
「ネズミよ! お膳の上にネズミが! 汚い!」
「え!? ネズミ!? そんなはずは……」
焦る女将を、お銀は責めた。
「ネズミが出るなんて不潔よ! 不潔だから食中毒になるのよ! こんな不潔な宿最低よ!」
声を大きくして、宿の悪口をまくしたてた。
あまりに騒がしいので、他の部屋から覗きに来る者まで出始めた。
女将は、平身低頭、必死にその場を穏便に済ませようと必死になった。
「お客様、お静かにしてください! お願いいたします」
「静かにしろって言われても、ムリ! ご飯はまずいわ不潔だわ、最低じゃないの!」
あまりに酷い悪口に、ぐうの音も出なくなった女将は、隣の仲居に耳打ちすると最後の手段に打って出た。
金だった。
紙に包んだ金を差し出し、
「どうか、どうかこの場はこれにてお納めください……」
この最悪な手に、お銀は呆れかえった。
敵に金などもらっても、不愉快なだけ。
それは助三郎も同じ。ついつい、自分が病人役だという事を忘れて怒鳴っていた。
「そんなはした金貰っても、この宿の飯は不味いし、俺の腹は直らないんだよ!」
慌てたお銀が止めにはいったが時すでに遅し。
すべて芝居だったと分かるや、女将は金を懐深くしまいこみ、大声を張り上げた。
「強請です! お役人を呼んで!」
しかし、そこでぼんやりとしょっ引かれるのを待つ二人ではなかった。
すぐさま荷物をひっつかむと、凄まじい勢いで宿を後にした。
「へへっ! 捕まらないよ! 痛っ!」
助三郎は自分たちを追いかけようと、追いかけてくる使用人を見て笑った。
が、言ったそばから足もとの石に蹴つまづいた。
そんな彼の様子を見ていたお銀は、天を仰いだ。
「もう! バカ! ほんとにバカ! なんでそんなにドジなの!」
「バカって…… ドジって……」
普段あまり言われない悪口に助三郎は閉口した。
しかし、お銀の悪口は止まらなかった。
「ここまでバカで、間抜けで、ドジだとは思わなかったわ!」
「おい。言いすぎだ。悪口はあの店にだろ? なんでおれの悪口ばっか!?」
「何が水戸随一の剣豪よ!? ただの剣術バカじゃないの!?」
「……悪かったな」
お銀は悪口を、助三郎はそれにひたすら反撃を。
そうこうしながら、二人は主の元へと帰って行った。
「おや、帰ってきたみたいじゃな」
物音と声に気付いた光圀は、女に戻っている早苗に目配せした。
変わらないといけない早苗は、残念がる由紀を宥め、男になった。
そこに、息を切らせた助三郎とお銀が走ってきた。
「どうじゃ? 仕返しできたか?」
おもしろそうに聞く光圀に向かい、お銀は怒った様子。
「助さんのせいでしくじりました! もう最悪!」
「ほう。聞き捨てならんな」
険しい表情になった主と、隣の早苗に若干怯えながら、助三郎は弁明した。
「しかし、聞き込みはできました。情報、取ってきました!」
「本当か? では、その報告を」
光圀の隣で、早苗は重要な事を書き残そうと、助三郎の話しに耳を傾けた。
「宿の女中に聞いたところ、主人の叔母が金を自分のところへ入れるため、質の悪い材料で料理を作らせているそうです。その上に元から料理人は下手くそ。それ故、良い料理人を雇って、その腕でどうにか誤魔化そうと言う魂胆です。それに、主人は長旅に出たままです。未だ戻らないので、やりたいほうだい」
助三郎の話しはそこで終わった。
光圀は続きを促した。
「そうか。他に何かあるか?」
しかし、助三郎は妙な事を呟いた。
「……お咲ちゃんが教えてくれたのはそれくらいかな」
聞き捨てならない、女の名前だった。
筆を止め、早苗は助三郎を見た。
「……お咲?」
「宿の女中の娘だ。ちょっと話しかけたら色々しゃべってくれた」
ニヤケながらそう言った彼に、早苗は苛立ちを覚えた。
精一杯嫌味にこう言った。
「ふぅん。可愛いかったか?」
「あぁ。小柄で色が白くて。可愛いかったぞ」
鼻の下を伸ばさんばかりの彼に早苗の苛立ちは募る一方。
「ほぅ、良かったな」
「あぁ、良い休養になった。うらやましいか?」
眼の前に結婚を申し込んだ相手がいること、ましてその相手の気分がすこぶる悪くなっていることなどつゆ知らない助三郎。
とうとう早苗は、怒りのあまりこう口にした。
「……ご隠居、この能天気男もこの場で始末していいですか」
「許すとしよう。好きなようにやりなさい」
「はっ」
恐ろしい会話に、助三郎は飛び上らんばかりに驚いた。
「おい! 格さん、なんでだよ。俺、ちゃんと仕事したぞ!」
光圀は素知らぬふりで一人茶を啜り始めた。
その傍で早苗と助三郎の言い合いが始まった。
「黙れ、女にうつつを抜かして何が仕事だ!」
「だって…… 女って言うとすぐ怒る……」
「ごちゃごちゃ言うんじゃない。お前はやればできるはずの男だ! どうしてそうやって不真面目にやるんだ?」