雪割草
新助は茶菓子を差し出し、彼の労をねぎらった。
「疲れた。暑いから余計疲れた」
菓子をほおばりながら、彼は着物の襟を少し肌蹴させた。
しかし、涼しい風は入って来ない。
汗が気持ち悪い助三郎は、
「だめだ、風呂入って汗流してくる」
そう言って、せっせと身支度を始めた。
「助さんも風呂ですか?」
「……もって?」
「さっき、格さん風呂に行きましたよ」
『格之進』の正体など何も知らない彼。
彼は助三郎が風呂場に向かうのを止めようとはしなかった。
「そうか」
許嫁が側にいるなど、それが今風呂に入っているなどと、全く気付かない助三郎。
何も考えず、風呂場へと向かった。
「きれいなお湯は気持ちいい……」
早苗はあろうことか、男風呂に女に戻って入っていた。
こんな時間に風呂に入る客はいない。
風呂場から出る時、男に戻ればいい。そう思ってのことだった。
「やっぱり、暖かくて、お湯が綺麗なお風呂はいいわ……」
そんな早苗の幸せな時間を、男の声が邪魔した。
「格さん、まだ居るか?」
「えっ」
驚きのあまり声を出してしまった早苗は、口を押さえた。
格之進の声とは程遠い早苗の声。聞かれたらまずい。
「……ん? 格さん?」
返事しようにも、声が女。
男に変わるしかない。
泣く泣く彼女は格之進に変わった。
「居るけどさぁ…… で、なんだ用事は?」
「なんだって、風呂場での用事って言ったら、一つしかないだろ」
まさか。
「今日暑いだろ? 汗かいてさ、水浴びでもいいかと思ったが、風邪ひくからさ……」
まさか、入浴するつもりではないだろうか。
恐れた早苗は、口早に言った。
「直ぐ出るから、今出るから、外で待っててくれ。な?」
呑気な助三郎。
その言葉に従うことはなかった。
「は? なんで?」
「……だ、だって、狭いだろ? 一人でゆっくり入った方がいいって」
「そうかな?」
「そうだ!」
帰れ、帰ってくれと必死に心の中で念じた。
しかし、彼女の願いは通じなかった。
「そんなこと言っても、もう脱いじまった」
「は!?」
耳を疑った早苗だったが、次の瞬間には己の目を疑っていた。
扉を開ける音と共に、一糸纏わぬ助三郎が入って来たのだ。
「よ。お疲れ」
初めて見る自分以外の男の裸。
本物の男。しかも、許婚。
頭爆発寸前の早苗は、浴槽の隅に身を寄せ、勢いよく捲し立てた。
「なんで入ってくる!? 直ぐ出るって言ったろ!?」
しかし、そんなこと気にせず助三郎は身体を洗い始めた。
「おい、聞いてるか!?」
助三郎は呆れたように返事をした。
「聞こえてるって。声でかすぎる」
しかし、出て行く様子は全くなし。
身体を洗う彼の背中を見つめながら、早苗は呟いた。
「……なんで入って来るんだよ」
ぶつぶつ文句を言ってると、助三郎はいつの間にか湯船に入って来た。
「げっ……」
直視できない早苗は、彼に背を向けた。
「どうした?」
しかし、すぐさま助三郎は彼女の前に回り込んだ。
「ちょっと、なんで入って来るんだよ!?」
眼の前の許婚から、早苗は必死に眼を逸らせていた。
しかし、彼はそんなことお構いなし。
「湯船に浸かるのが入浴ってもんだろ? ……あ、もしかして」
ニヤリと彼が笑った。
「……な、なんだ?」
「……恥ずかしいのか?」
女の時でさえ素肌を彼にまだ見せていない。
そして、今、目の前には裸の彼。
好きな男の裸。
恥ずかしいに決まっている。
早苗の顔はみるみる真っ赤になっていった。
その様子を目の当たりにした助三郎は、気まずさを感じた。
「あ、えっと…… そうだ、お前、兄さん居るのに一緒に入ったこと無いのか?」
「……無い」
「なんで?」
「それは…… その……」
口ごもった早苗。
本当の理由など言えない。
どう返答しようか迷っていたが、助三郎は勝手な解釈をしたようだった。
「すまん…… 悪いこと聞いたみたいだな……」
「へ? いや、いいんだ…… 気にするな……」
助三郎は早苗から距離を離して湯に浸かっていた。
何も話さない、静かな時間が過ぎて行った。
早苗はやっと落ち着きを取り戻した。
「……あのさ、格さん、いつも一人で入ってるが。さびしくないのか?」
突然口を開いた助三郎。
彼は護衛のため、いつも光圀と一緒に入っていた。
もちろん、早苗はこの仕事だけは免じてもらっていた。
「寂しくはない…… 男がみんな夜に部屋からいなくなったら、危ないだろ?」
そのもっともらしい理由に彼は納得したようだった。
「……でもさ、遅い時間って湯がきれいじゃないだろ? 温いし」
「ああ、でも、仕方ない……」
「真面目だな…… あ、それとさ、暗いのに一人で入って怖くはないのか?」
「……は? 怖いって、何が?」
不思議な質問に問い掛けると、助三郎は慌てた様子で誤魔化した。
「あっ、いや、何でもない。気にするな。そういえば格さん、細身だと思ってたが結構良い身体だな」
「へ?」
「もっと鍛えろ!そしたらもっとモテるから。俺ももっと鍛えないと。鍛錬の相手、頼むな! そうだ……」
いつしか、早苗は助三郎に見惚れていた。
早苗も女。興味が無いわけではない。
たった一度のあの甘い幸せな時間を思い出していた。
あの手で、あの胸に引き寄せられた。
あの腕でギュッと抱きしめられた。
うっとりと許婚を眺めていると、助三郎に気付かれた。
「……格さん、のぼせたか? 出られるか?」
現実に引き戻されたが、心配してくれる彼に、早苗の胸は高鳴った。
「……大丈夫だ。まだ入ってる」
「そうか、でも、早めに出ろよ。なんかボーっとしてるみたいだし」
ボーっとなっているのは、湯がすべての理由でない事に彼は気付いていない。
助三郎が風呂場から去ったのを確認すると、早苗は女に戻った。
しかし、すぐに風呂から出ることはなかった。
「あぁ! もう、ダメ! 助三郎さま……」
早苗は、湯船に沈んだ。
湯船に沈んだせいで、早苗の髪は乱れて濡れて散々だった。
濡れ髪の始末にも手間取り、げっそりしながら部屋に戻ると、皆はもう宿に戻っていた。
そして、早速情報を仕入れたと見える由紀に、人目の付かない所に連れ出された。
「お風呂、一緒に入ったんだって!? 案外やるじゃない!祝言前なのに!」
浮かれる由紀と対照的に、早苗は風呂場の出来事を思い出し溜息をついた。
「……見られた」
「えっ? まさか、バレたの!?」
「……いや、俺の裸、見られたんだ」
「なんだ…… バレたわけじゃないのね。よかった……」
「……でも」
「でも、なに? 早苗じゃなくて、格さんの裸なんでしょ? 見られたの」
「だって……」
「触られたり変なことされてないでしょ?」
「うん。そんなことされたら死ぬ…」
「さぁ元気出して!結婚したらしょっちゅう見られるんだから我慢よ!」
「そうなのか?いやだ…いくら助三郎でも見られたくない…」