金銀花
《04》兄の心、妹知らず
「香代!? 香代!?」
千鶴が懸命に香代に呼びかける中、助三郎は呑気に妹が抱きかかえている香代の顔を覗いていた。
「気絶したのか?」
「はい。どうしましょう兄上……」
いくらやっても起きない友達に困り果てた千鶴は兄にすがった。
「仕方ない。家まで運ぶんだ」
その指示を受け、千鶴は香代を負ぶって行こうと試みたが、びくともしなかった。
背中に乗せたまま、立ち上がることができずに蛙のように潰れてしまった。
あまりに情けない様子に、助三郎は呆れた。
「なんだ、お前。女の子一人持てないのか?」
「持ったことありません!」
「ふぅん」
そういうと、なぜかにやにや笑い始めた。
おそらく、早苗を抱きかかえた思い出にでも浸っているのだろう。
そう推測した早苗は、おバカな妄想を止めさせるべく、助三郎に命じた。
「意識のない人間は重い。助さん手伝ってやれ」
すると、さすが日々鍛えているだけある。軽々と香代を抱き上げて歩き始めた。
ついでに、早苗に向って失礼な言葉を吐いた。
「格さん。この子、早苗より軽いぞ」
「うるさい! いいさ、二度とお前になんか抱っこしてもらわないから」
そう言った途端、助三郎の顔は青ざめた。
大好きな早苗に嫌われるのが、何より怖い。
「悪かった…… そんなこと言わないでくれ。お前は、その格好じゃ重いが、女の時は軽い。な?」
「…………」
「早苗?」
早苗はニヤリとすると、夫を無視しかわいそうな義妹に声をかけた。
香代を抱いたまま、助三郎はうなだれて、とぼとぼと弟二人のあとについていった。
「香代ちゃんの看病しないとな」
「はい…… でも、また気絶したりしないですかね?」
「大丈夫。事情を説明してやるから。千鶴の大事な友達だ。隠し事したくないだろ?」
「はい……」
友達という言葉を言った早苗は、バラバラになってしまった友達に会いたくなった。
結婚して他藩へ行ってしまったり、気楽に出歩けることができない。なかなか会えないつらさが武家の女にはある。
「……まぁ、おとなしい香代ちゃんだ。男になったって言っても普通に付き合ってくれると思う。……由紀みたいなことはないだろう」
早苗は思い出した。自分が男になっている時の、親友の変な態度を。
惚れた腫れたの話ではないが、早苗にとってはこの上なく心地悪い。
由紀とも面識があった千鶴はその話が気になった。
女の子たちの間では、江戸屋敷で奥方付きまで昇り詰めた優秀な先輩として由紀は憧れの的だった。
「あの、由紀さんは?」
「……あれは、変態だ。男の風呂を覗いて、裸を見たがる。それにな、俺と助さんがアレだって言って妄想ばかりしてる」
「……見かけによりませんね」
「だろ? 香代ちゃんは、そんなことしないだろうから心配するな」
早苗は千鶴と話をしながら歩いていた。途中幾度も助三郎に声をかけられたが、無視を決めこんだ。そうこうするうちに佐々木家に到着したので、香代を千鶴の部屋に運び、布団の上に寝かせた。
たらいに水を張り、濡らした手拭いで頭を冷やすうち、香代の眼が開いた。
「あれ? わたし……」
自分の状況が分からない千鶴は、少しの間ぼんやりしていた。
それを見た早苗は優しく話しかけた。
「気分はどう?」
「平気です。……あの、渥美様、ここは?」
「佐々木家だ」
そう早苗が言うと、香代は驚いた表情を見せた。
「あの、では、渥美さまはやはりあのお噂の通り?」
『渥美格之進』は謎の多い男で通っている。妙な噂も次から次へと作られるほど。
仕事が良く出来るのに非常勤。その理由は裏で何か密命をこなしている。
名字が違うが実は橋野又兵衛の隠し子だ。
女が苦手な硬派だが、大層可愛い妻と結婚した。しかし、その妻は新婚間もなく行方をくらました。
彼女は助三郎の腹違いの妹。いつか帰ってくるのを待つために佐々木家に居候している。
そんな状態だった。
香代もその噂を信じていたようだったので、早苗は誤解を解くことにした。
「本当のことを言うと、俺は早苗なんだ」
結論を先に言ったが、普通の人間が信じるわけがない。
香代も、嘘だという眼で早苗を見た。
「……何をおっしゃってるんです?」
実践あるのみと、早苗は考えた。
「姿が変わるけど、驚いてまた気絶しないでね」
「……え?」
香代の眼の前で女の姿に戻った。
すると、香代は気絶こそしなかったが、驚いて目を見開いていた。
「こういう事なの。格之進はわたしで、その可愛い妻の美帆はあの人」
そういって、部屋の隅にいた助三郎を目で差した。
「……佐々木さまが?」
助三郎は赤くなって早苗に怒った。
隣の千鶴は、いい気味だとくすくす笑っていた。
「……言うな! 恥ずかしいだろ!」
助三郎の隣の若い男を眺めた香代は自分が気絶した原因について聞きたくなった。
「……では、千鶴は?」
「うちの人が勝手に男の子に変えたの。たぶん半月くらいで戻るから、ちょっと待っててね」
「……はい」
すんなり受け入れた香代に安心した早苗は、義妹のために席を外すことにした。
「じゃあ、二人にしてあげる。何かあったら呼んでね。……助三郎、行くぞ」
なぜか、男に再び姿を変え夫を呼び捨てにして、部屋を後にした。
そのことに不満だったのか、助三郎が文句を言いながら後に続いた。
「……なぁ、早苗。何でまた格之進なんだ?」
「薪割りしたいからこの格好だ。文句あるのか?」
そんな、おかしな兄夫婦を見送った千鶴は、布団の上に座っている香代に近づいた。
怖がられたり、気持ち悪がられたりするかと思ったが、彼女は千鶴に向って穏やかに言った。
「……本当に千鶴なのね?」
「……うん。今日の約束破ったらいけないと思って。でも、驚かせてごめん」
「ううん。ありがとう。そんなことになってるのに、ちゃんと約束覚えててくれて」
「そう? あのさ、当分稽古は一緒に行けない。こんな姿だから。ごめんね」
「気にしないわ。……でも、千鶴が心配。男の子嫌いなのに、大丈夫?」
「……ううん」
口数が少ない千鶴が香代には気になった。俯き加減で、言葉を選ぶようにゆっくり慎重にしゃべる姿は、普段の千鶴の様子とはかけ離れていた。
「気分でも悪い? 大丈夫?」
「うん。平気。あのさ、気を抜くとしゃべり方が男になるの。イヤだから、気をつけてるの」
そう打ち明けた姿に香代はホッとした。
「なんだ。そんなこと?」
すると、千鶴はむっとして反論した。
しかし、気を抜いたせいで話し方が男になっていた。
「そんなことってなんだよ。俺は男がイヤなんだ。……あ」
「……フフッ。男の子ね。声も低くてほんとに男の子」
香代に笑われた千鶴は、またもうつむいてしまった。
「……もういい。しゃべらない」
「ごめん。おかしくないわ。笑わないから。おしゃべりしましょ」
優しく言う、香代に千鶴は顔を上げた。
眼の前には、優しく微笑む彼女の顔があった。
「……いいの?」