金銀花
「えぇ。見た目が男の子でも、千鶴は千鶴でしょう? 気にしない」
「ありがとう」
千鶴はいつもと変わらない親友と、おしゃべりを楽しんだ。
男に変わって溜まっていたうっぷんや、兄助三郎の愚痴を聞いてもらい、気分がすこし楽になった。
しかし、そんな楽しい時間を過ごしているうち、日が暮れはじめた。千鶴はお詫びも兼ねて、香代を送っていくことにした。
もちろん外出は禁止だったが、そっと家を抜け出した。
香代の家、水野家の屋敷の近くまで千鶴はついて行った。
人目に触れると厄介なので、目立たない所で別れることにした。
「送ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
「……早く女の子に戻れるといいわね」
「うん。俺……わたしも早く戻りたい。男はイヤだ」
男前に変わった親友が一生懸命『俺』と言わないよう努力する姿が、香代には面白く見えた。
姿に合わせた『俺』の方がしっくりくるのに、嫌がって『わたし』と言う千鶴は、相変わらず頑固だった。
「……男嫌いの千鶴には、いい男も宝の持ち腐れか」
「は?」
「千鶴、男の子嫌いだから、自分の姿に見とれなくて済むわね」
そうやってからかうと、千鶴はむきになった。
「そんなこと、絶対にしない! 男なんか見たくもない」
「フフッ。そう? そのうち気が変わるかもね。じゃあ、またね」
「うん。またな。……あ、ね」
香代が屋敷の門に入ったのを見届けると、千鶴は自宅へと急いだ。
まだ日が出ているうちに家に着いたが、門の外にはなぜか助三郎が立っていた。
腕を組み、夕焼けを眺めている彼の姿に千鶴はなぜかイヤな気配を感じていた。
自分を男に変えてから、どうも兄とは関わりたくないと思うようになっていた。
しかし、助三郎が立っている位置が悪かった。絶対にそこを通らないと、家の中に入れない。
結局、見つかった。
「どこ行ってた?」
「……香代を送ってきただけです」
「そうか。千鶴、至急庭に来い」
外出を咎められなかったのはいいが、意味不明な命令が気になった。
「なんでですか? もう、夕餉の時間でしょう?」
「飯の前に、鍛練だ」
その言葉に、千鶴は驚きの声を上げた。
「は!?」
すると、助三郎は千鶴の腕を掴み、懇願し始めた。
「頼む。一回でいいからさ。剣術の稽古したいんだ。な?」
わけのわからない申し入れに、千鶴は困惑した。
小さい時から、武術は必要最低限の小太刀しかしたことがない。
木刀など、持ったこともない。そんな女が剣術稽古などできるわけがない。
すぐさま、拒否の意を示した。
「格之進兄上とやればいいでしょう? 私は剣術できません!」
しかし、助三郎は退かなかった。
「あいつとはしょっちゅうやってる。本当の弟とやってみたいんだ。見よう見まねでいいからさ」
そういうと、千鶴の腕をつかんだまま、庭に引き摺りこんだ。
そして、たすき掛けをさせようと、千鶴の身体に触れた。
女の時は、一度もされたことがない。
「ちょっと! なにするんですか!?」
しかし、助三郎は怯まなかった。それどころか何かに気づき、ぺたぺたと身体を触りはじめた。
そして、ついに千鶴の着物の袖をひっぱり、肩肌を脱がせた。
「筋肉全然ないじゃないか。ひょろひょろだな。だから女の子の一人も抱っこできないんだぞ」
兄に突然着物を剥かれた千鶴は叫び声を上げた。
「キャー!」
「女みたいな声だすな」
急いで肌を隠し、兄の頬を思いっきり張った。
バシンとすごい音が響くと同時に、若い男の怒鳴り声も屋敷に響き渡った。
「変態! ドスケベ!」
その声を台所で聞いた早苗は、すぐさま仕事を中断し、庭に走った。
犬のクロも、妙な叫び声を聞いて、寝床から這い出した。
早苗が庭に現れると、すぐに千鶴が半泣きで走り寄ってきた。
「姉上、助けてください!」
「どうしたの?」
「兄上に、兄上に着物を剥かれました……」
そういうと、千鶴は地面に座り込んで泣き出し、その姿に見かねたクロが近寄り、涙をなめて慰めはじめた。
早苗はキッと助三郎を睨んだ。
その場に助三郎の見方は居なかった。
「違う! ただ俺は千鶴と稽古したかったけだ! スケベなことなんかしてない。
第一、妹だろうが弟だろうが身内に手をだすわけがないだろう!?」
「言いわけなんかいらないわ! 貴方一体最近何やってるの!? いい加減にしなさいよ!」
「だから、俺は……」
尚も言い訳をしようとする助三郎を思いっきり千鶴は睨みつけた。
クロもそれに乗じて、助三郎に吠えかかった。
「兄上なんか大嫌いだ! このクソ兄貴!」
そう捨てゼリフを残すと、千鶴は部屋に逃げ帰ってしまった。
「可哀想に…… 最低! もう助三郎さまなんか知らない!」
早苗も夫を置き去りにして、義母の美佳に告げ口しに部屋へ戻って行った。
その晩、助三郎は余り物を集めた夕餉を一人さびしく、台所の隅の暗がりで食べた。
後始末も任させられ暗闇の中、月明かりを頼りに洗い物をした。
普通の家では絶対にありえない罰。反省しながら、助三郎は黙々と洗い物を片付けた。
それも終わった後、風呂へ向かいぬるい湯につかった。皆が入った後で、湯も綺麗ではなかった。
しかも、夜遅くで中は暗かった。そんな時間に一人で入浴するというのは助三郎にとって怖い以外の何物でもない。最悪な状況だった。
そんな罰を食らった助三郎は辛くて寂しくて堪らなかったが、必死にこらえた。
しかし、可哀想な彼にはもっと悲しい罰が待ち構えていた。
寝所に戻ると、愛する妻の姿はなかった。怒った姿を見るのは嫌だが、そんな贅沢など言えなかった。
部屋の隅に布団が敷かれ、その中に寝ていたのは、男だった。
しかも、壁に顔を向け助三郎を拒むそぶりを見せていた。
あきらめ半分、期待半分で、助三郎はその男に声をかけた。
「……早苗?」
「俺は格之進だ。姉貴は実家に帰った」
「…………」
「姉貴はふざけ過ぎのお前に飽き飽きしたんだと。当分帰って来ないぞ」
「……お休み」
助三郎はなにも反論せずに、格之進が寝ている場所と正反対の壁側に布団を敷き、中に潜り込んだ。
そして、早苗の機嫌が直り一刻も早く女の姿に戻ってくれることを願った。
妹の千鶴に心から詫び、早く元の女の子に戻ることを祈った。
妻に逃げられた悲しい男の夜が更けていった。