金銀花
《05》妻の仕置き
早苗はそれから十日間、一度も助三郎の目の前で女に戻らなかった。
出仕はしないで、家にいるのに助三郎の眼の前ではずっと格之進。
男ばかりの家族に、さすがの助三郎も疲れ始めた。
千鶴は、ほとんど口を聞かず、助三郎が声をかけると睨む。
そのせいで、家族の会話は無きにひとしかった。
自棄食いする助三郎と、普段の倍の量を食べる千鶴、早苗。
男一人から、男三人に増えたせいで米の減りが速くなった。
これを見た美佳は溜息をつき、せっせと毎朝大量の米を炊く下女に詫びを入れ、早く女三人と男一人の普段の日常が戻ってくることを願った。
助三郎を無視し続ける千鶴だったが、裏ではそこそこ楽しんでいた。
香代と内緒で待ち合わせをして、ほぼ毎日おしゃべりに興じていた。
その日も、助三郎が出仕し、早苗が女に戻って部屋に籠った後、こっそりと屋敷を抜け出した。
もちろん、クロも後に続いた。
暇でしょうがないらしく、必ず千鶴にくっついて行く。
以前から千鶴に懐いてはいたが、男に変わった姿がクロの大好きな助三郎によく似ているので、さらにじゃれつくようになっていた。
千鶴と一緒になった香代は、その日することを提案した。
「今日は原っぱにしましょ。お昼から用事あるから、それまでね」
「ごめんね、忙しいのに」
「気にしないで。こうでもしないと千鶴と会えないから。クロも一緒に行きましょうね」
「ワン!」
ひとっこひとりいない原っぱで二人は腰掛け、話し始めた。
時々、クロが持ってくる棒の切れ端を投げて遊んでやった。
「どう? そろそろ男の子に慣れた?」
「ううん。まだ慣れない。しゃべり方が変だし」
「でも、その格好の時は、男の子のしゃべり方のほうが合ってると思うけど」
「そう?」
「えぇ。気を抜いて。疲れちゃうでしょ?」
笑顔の香代に気を許した千鶴は、思うがままにしゃべることにした。
「……こんな風に、完全に男だぞ。良いのか?」
反応が気になったが、香代の笑顔は変わらなかった。
「ほら、そっちのほうが千鶴らしい。表情が明るくなったわ」
「そうか?」
そこへ、クロが棒を持って来て盛大に吠えた。
『投げて!』と言わんばかりに尻尾を振る姿に、二人は笑い、千鶴が思いっきり遠くに棒を投げた。
「すごい。クロ、速いわね」
「鉄砲弾みたいだな」
笑っていたが、急に香代は顔を伏せ、少しさみしそうに言った。
「……でも、早く戻れるといいわね。いっしょにお稽古行きたい……」
「……ごめん」
花嫁修業と一切認めてはいないが、女の子が習うたいていのものを千鶴は習っていた。
お茶、お花、舞、琴。友達と終わった後につるんで出かけるのも、楽しみの一つだった。
しかし、男の姿のいまそれはできない。
「……毎日千鶴が居なくてつまらなくって。みんなも心配してるわ」
「でも、こんな格好で女の子ばかりの場所には行けないよ」
そういう千鶴を眺めた香代は、ニヤニヤしてこう言った。
「それもそうね。みんなキャーって言ってお仕舞いね」
「……なんで?」
きょとんとした千鶴に、香代は少し呆れた。
「なんでって、格好良いからに決まってるでしょ?」
「は?」
相変わらず、男嫌いの親友をクスッと笑った後、こう言った。
「……本当に何も感じないの? 十分すぎるくらいかっこいいけど」
「どうでもいい。この顔、兄上に似てるだろ?」
「そうよ、それが、かっこいい証拠よ」
「いや、あのふざけた兄上を鏡を覗くたびに思い出して虫唾が走る。最悪だ」
この言葉を聞いた香代はうらやましそうに千鶴を眺めた。
「一緒にお兄ちゃんと住めるってうらやましいと思うけど」
「ごめん」
香代は、水野家の次女。
姉がいたが、今は江戸屋敷で働いている。
早苗の親友、由紀が嫁いで欠員が出たところへ入ったのだった。
水野家の当主である香代の父親がどうしても娘をと上に頼みこみ、働かせてもらっていた。
「いいわ。姉上、お仕事面白いって文に書いてあったから。気にしないで」
「そうか?」
ここでしんみりしてしまった話をやめ、千鶴の姿の話題に戻った。
カッコいいとからかう香代に、千鶴は文句タラタラだった。
「あぁ。もうイヤだ。家を出たい……」
「どうして?」
「義姉上まで格之進兄上のままなんだ。だから、家の中が男だらけ。家中の下女が心配して入れ替わり立ち替わり話し相手に遊びに来てくれるのがうれしいけど、やっぱり俺と同い年くらいの若い子に会いたい」
「なんで?」
「だって、若い子の方がかわいいし、綺麗だし、話してて面白いじゃないか」
この言葉に香代は目を丸くした。
普段から女の子が好きで同じようなことを言っていた千鶴だったが、いまの姿で言うと色男そのものだった。
思わず、それを口に出してしまった。
「そんなことその格好で言うと、本当に男の人みたいね」
「……ん? 何だって?」
聞き捨てならないことを聞いた千鶴は立ち上がり、じりじりと香代に詰め寄った。
「もしかして、怒った?」
「もちろん」
「キャー! 怒った!」
「こら、待て!」
キャーキャー言って逃げる香代を千鶴は追いかけまわした。
しかし、綺麗な着物で着飾っている香代は走れず、すぐに捕まえられた。
二人で笑ってじゃれあった。
戻ってきたクロも、棒きれをそっちのけにぴょんぴょん飛び回っていた。
しかし、楽しい時間はすぐに終わる。
香代が帰る時間になってしまった。
「……もう日が高い、行かなきゃ。じゃあ千鶴、またね」
「あぁ。またな!」
この密会を、兄夫婦は一切関知していなかった。なにしろ、彼らは自分たちの妙な夫婦喧嘩に精一杯で、それどころではなかった。
これが、後々厄介なことになろうとは誰も知るよしもなかった。
その日の夕方、助三郎はひどくうなだれて帰宅した。
どうしても仕事に身が入らず、こっぴどく光圀に叱られたからだ。
こう言うときこそ、妻に甘え慰めてもらいたいのが本望。
しかし、期待はせず、帰宅を知らせた。
「ただいま戻りました。……って出迎えはやっぱり無しか」
そこへ、出迎えがやってきた。
やはり、期待した姿ではなかった。
「あっ。助三郎お帰り。晩飯出来てるぞ。それとも風呂にするか?」
ぶっきらぼうにそう言う男に、助三郎はがっかりした。
「……何か味気ないな」
「早く、腰の物貸せ」
「はいはい……」
その日も、刀を預けたのは妻の早苗の柔らかな手ではなく、義理の弟で親友の格之進の大きな力強い手だった。
うなだれて、部屋に入るとなぜか格之進が控えていた。
「……格さん、なにやってる?」
「着替えの手伝いに決まってるだろ。早く脱げ」
「……そんな声で『脱げ』言われても何もうれしくない」
「やっぱりスケベだな。俺はお前の裸なんか見ても何もうれしくないからな」
「男だもんな。格さんは」
「あぁ。そうだ。さっさと脱いで着換えろ」
「はいはい」
殿さまの身支度を手伝う近習の図、が夫婦の部屋で繰り広げられていた。