金銀花
その晩、早苗はまたも男のまま部屋の隅に布団を敷いた。
とうとう、助三郎は彼女の前に進み出て、手をついて頼み込んだ。
我慢の限界だった。
「格之進、この通りだ。お前の姉貴説得してくれ」
もちろん、『早苗』とは言わない。
『俺は格之進だ』という大嫌いな言葉を聞きたくはなかった。
思惑どうり、早苗は会話を拒否せずに普通に受け答えした。
「なんで説得しないといけないんだ?」
「……逢いたいんだ。今すぐ早苗に」
「は?」
「仕事で嫌な事あった後に、あいつの笑顔みると癒されるんだ。『お帰りなさい』って言われるとホッとするんだ」
その言葉に格之進のままの早苗が、顔をそむけた。その頬が赤らんだのを助三郎は見逃さなかった。
いくら姿が男でも、中身は妻の早苗。褒め倒せば、女ごころがうずいて、女に戻ってくれるに違いない。そう考えて、思っていたが絶対本人の前では恥ずかしくて言えないことを並びたてた。
「あの可愛い顔を拝みたい。澄んだ鈴の音のような声を聞きたいんだ。『助三郎さま』って呼ばれたいんだ」
「あ、そう」
「あの、絹のような肌に触れたい。柔らかい小さな手で俺に触れてほしい」
「それで?」
「あの、きれいな早苗の白い肌。布団の中で拝みたい……」
この言葉が逆効果だった。
顔を赤くして早苗は怒り、そっぽを向いてしまった。
「スケベ! そんなやつは知らん!」
がっかりした助三郎だったがまだあきらめてはいなかった。
最終手段に打って出た。
「……もう無理なんだ! 我慢の限界だ!」
「え?」
助三郎は、イヤイヤだったが男のままの妻を押し倒し馬乗りになった。
今まで絶対にそんな野蛮な手を使ったことはなかった。
そんな異常な夫の姿に早苗は焦り、怒鳴った。
「ちょっと! 今男だぞ! 何考えてる!?」
「俺だってイヤだ! 男の友達押し倒すなんて。 だがな、もう耐えられないんだ。早苗を連れ戻してくれ!」
「イヤだ!」
そう怒鳴ると、助三郎の下の早苗は抜け出した。
上に乗っていた助三郎は転がされた。
「ちぇ。やっぱり男だと力が強いな。女の時と差が有り過ぎる」
文句を言った夫を、早苗は挑発した。
「素手で俺に勝とうと思うな! 剣術バカの助三郎!」
これにまんまと助三郎はかかった。
「あ、言ったな! 馬鹿力の格之進!」
「なんだ? やるか?」
「おう! やってやろうじゃないか!」
そういうと、二人は取っ組みあって暴れはじめた。
互いに欲求不満とほかの不満が溜まりに溜まった上での格闘。
部屋の襖と障子は破れ、ひどい有様になった。
しかし、そこで止まらず、廊下に出ても二人は闘っていた。
その大騒ぎに、家じゅうの者が起き出した。
寝間着のまま、美佳は息子二人に向って大きな声でたしなめた。
「貴方達! 夜になにやってるんですか!」
しかし、当の二人には聞こえていなかった。
千鶴も、心配になって二人に向って叫んだ。
「兄上! やめてください!」
「口出し無用! 男と男の果たし合いだ!」
「直ぐに決着つけるのでお構い無く! 千鶴、見てろよ俺が勝つからな!」
「黙れ格之進。お前には負けない!」
結局、戦いは庭に持ち込まれた。
月明かりのした、寝間着の男二人が激しい素手での戦いを繰り広げた。
美佳と千鶴は呆れて部屋に戻り、良い男二人の決闘に黄色い声をあげていた下女も眠気には勝てず寝床へ帰って行った。
いつしか、観客は下男ばかりになっていた。
早苗が優位に立っては歓声をあげ、助三郎が早苗を追いつめると文句を言い。野次が飛びかい夜中にも関わらず、すさまじい熱気だった。
結局、本気を出した早苗が助三郎を背負い投げし、地面に固め決着がついた。
早苗の味方が多かったせいか、かけられる言葉も早苗よりだった。
「さすが若奥様だ! よっ! 水戸一番!」
「旦那さまの柔術、かなり上達された。これも格之進様のおかげだ」
「旦那さま、奥様に負けるなど情けないですよ」
地面に押さえつけた夫は、負けを認めた。
「格さん、参った。素手じゃ無理だった!」
「わかったか!? 柔術は俺の方が上だ。俺の方が、強い」
肩で息をしながら、早苗は夫に勝利を宣言した。
剣術ではいまだに負けるが、柔術だけは負けたくない。
国一番のお墨付きを光圀から頂いた誇りがある。
地面に伏せたままの情けない夫を残し、早苗は着物の乱れを直した。
「……ふぅ。無駄に汗かいたな。一風呂浴びてくるかな」
助三郎は、その言葉にはっと閃いた。
風呂なら女に戻った早苗の顔がみられる。
そう考え、彼女のあとをこっそりとつけて行った。
「早苗!」
ばっと風呂場の扉を開け、中を見た。
しかし、風呂桶に浸かっていたのは男だった。
「げ……格さん」
「あれ、助さん、一緒に入りたいのか?」
「やめとく。狭いからいやだ」
「だろ? 早く出てけ。男の裸なんか面白くないだろ? それとも、お前やっぱり男色か?」
「俺は、男色じゃない……」
助三郎が風呂の戸を閉めるとすぐ、早苗は女に戻った。
「……考えが甘いわ。覗くのわかってて戻るわけないでしょ」
風呂から戻ってみると助三郎は部屋の隅でふて寝をしていた。
汗だくになったので、寝間着は着替えていたようだった。
無視はさすがに可哀想なので、一声かけた。
「お前は風呂に入らなくてもいいのか?」
「フン……」
「汗臭い男、俺は嫌いだけどな」
「お前には関係ない。早苗が居ないから汗臭くても構わない」
「そうか。ならいい」
早苗は反対側の部屋の隅に敷いた布団の中に潜り込んだ。
しばらくすると、寂しげなつぶやきが耳に入った。それは、助三郎の寝言だった。
「……早苗。俺が嫌いか?」
その言葉に、結婚前に起きたあの最悪な事件の思い出がふっと過った。
『俺が嫌いか?』と泣きそうな顔で近寄って来た助三郎を早苗は睨み、無視し、投げ飛ばし、恐怖のどん底に陥れた。
その時、早苗が起こした自害未遂で助三郎は刃物恐怖症になった。
格之進の姿の時も女の時も、大小の抜き身を持つのを禁じている。
直さなければいけないが、機会がない。やり方もわからない。
自身の過ちを心の中で夫に詫び、早苗は眠りについた。
次の日の朝、助三郎は今までで一番顔色が悪かった。
眼は虚ろで、食欲も全然無く、人と目を合わせなかった。
早苗は少し心配になったが、いつもどおり職場へ送り出した。
しかし、昼過ぎ突然職場から使者がやってきた。
助三郎が倒れたのかと心配になったが、ただの格之進の出仕命令だった。
すぐ早苗は格之進に代わり、夫のいる職場へ向かった。
職場へ向かうと、今度はなぜか光圀の住まい西山荘へ向かえと指示が出た。
急いで向かうと、助三郎と弥七、お銀が待っていた。
相変わらず、助三郎の顔色と表情は良くなかった。
主の前ということで、ピシッとしてはいたが。
「御老公、何でございますか?」
「明日、江戸まで付き合ってくれんかの?」
「また旅ですか?」