金銀花
《08》詫びの品
その日の朝早く、助三郎は光圀に呼び出された。
帰国が明日に迫った一日。支度が忙しい時に呼ばれたので、緊急事態かと緊張しながら主を訪ねた。
しかし、聞かされた内容は正反対だった。
光圀は穏やかな表情で、こう告げた。
「明日に予定していた出立を一日先送りにする」
「はい」
すると光圀は、紙切れを一枚助三郎に差し出した。
「その代わり、この店に行きなさい」
助三郎は受取り、書かれた文言を呼んで疑問に思った。
「呉服屋、ですか?」
江戸の大店の名前と場所がその紙には書いてあった。
「わしの顔が効くでの。安くしてもらった。この金で、千鶴と美佳、早苗の着物を買ってやれ」
すると、懐紙に包んだ小判を五枚助三郎の目の前に置いた。
いきなりの下賜に大いに驚き、主に平伏した。
「このような大金、頂けません!」
「褒美じゃ」
「え?」
「いつも旅に付き合わせておって、早苗と夫婦として過ごせんじゃろう?
それとな、昨日は大層楽しめた。その礼じゃ」
堅苦しい接待で嫌気がさしていた光圀は、昨日の事件で息抜きができて、ホクホク顔だった。
「……そうでございますか?」
まだ渋る助三郎を光圀は笑った。
「足りない分はお前さんもちじゃからな。安くしてもらっても結構値が張る店じゃ」
大名の顔が利くということは、高級品しか扱っていない店に違いない。
一藩士など到底手が出せないような代物も扱っているだろう。
主の好意をいつまでも拒むのは失礼と、助三郎はとうとう受け取ることに決めた。
「……ありがとうございます! お言葉に甘えさせていただきます」
「そうじゃ、助三郎」
「何でございましょう?」
「しっかり見立てるのじゃ。早苗に一番似合うのをな」
「はっ。必ず」
その日の昼、助三郎は早苗と教えられた呉服屋の前にいた。もちろん武家の夫婦の姿で。
助三郎の横で、早苗は不安顔だった。
千鶴への詫びのしるしに着物を買うから、ついてきてくれとだけ言われて来たが、帰りたくなっていた。
「江戸城大奥御用達って…… 高いでしょ? お金有るの?」
店は諸国大名、大奥御用達の店だった。
助三郎は改めて驚いたが、主の言葉に従うことに決めていた。
「ある。心配するな」
「本当?」
金勘定にうるさい早苗は、不安でたまらず、夫の妙な自信を疑っていた。
先に立ち、店の中に入っていく彼に大人しく付いて行ったが、不安は収まっていなかった。
番頭らしい年配の男に声をかけた。
「あの、水戸藩の者だが・・・」
「これはこれは、お話をいただいております。こちらへどうぞ」
笑顔で番頭に二人は案内され、店の奥へ連れられて行った。
そこには様々な反物が広げられ、圧巻だった。
早苗の不安は引っ込み、品定めしはじめた。
「千鶴ちゃんは、この色でいいと思う」
「そういえばそういうのいっぱい持ってたな」
彼女の好きな萌黄色の華やかな反物を選んだ。
「母上も、買って行こう」
「義母上さまは…… これかな?」
地味すぎず、派手すぎない藍色の反物を選んだ。
「歳だからあんまり派手じゃなくていいな」
「そんなこと言ったら、義母上さま怒るわよ」
二人であれやこれや言いながら反物を選び終えた。
任務を終えた早苗は、夫と二人っきりで残りの時間を過ごしたかったので、早々に呉服屋を後にしたかった。
「このあとどうするの?」
「えっと……」
口ごもった夫を早苗は少し残念に思った。
「お金ないから、甘い物とかお食事とかダメよね? 帰りましょ」
一方、思う処があった助三郎は、早苗を呼び止めた。
「早苗、番頭さんについてけ。まだ用事は終わってない」
「あ、お会計ね。番頭さん、よろしくお願いします」
真面目な彼女は、何の疑問も持たず、番頭について行った。
「奥様、こちらでございます」
奥の座敷に通された早苗は息をのんだ。
そこには帳簿やそろばん、金庫など存在せず、部屋中帯と反物で埋め尽くされ、足の踏み場もないほどだった。
それらはすべてさっき見たきれいな反物よりさらに美しいものばかり。
あまりの壮麗さに見とれていたが、はっと我に返り、番頭の顔を見た。
「あの……」
番頭は、笑みを浮かべ早苗を促した。
「こちらからお選びください」
「へ? それは……」
部屋に入ってきた助三郎は笑って早苗に言った。
「お前のだ。まだ選んでないから、帰れない」
「……わたしの?」
「あぁ。反物と帯、好きなの選べ」
予想外の言葉に、早苗は茫然としていた。
しかし、あることが気になった。
「……お金、有るの?」
「金は気にするな。お前は早苗だ。格之進じゃない」
「へ?」
「旅費やらなんやらを考えるのはお前の弟の仕事だ。お前は何も考えなくていい」
「でも……」
「俺からの贈り物だ。たまには良いだろ?」
先ほど、妹と母に反物を買ったが、小判はまだ余っていた。
しかし、自腹を切ってこそ妻への贈り物。そう思った彼は、下賜金を懐奥深くにしまっていた。
「店の人に聞いても値段は教えてくれないからな。そこんとこよろしく」
「……本当ですか? 番頭さん」
「はい。奥様には一切お教えできません。どれでもお好きな物をお選びください」
夫の思いがけない贈り物に、早苗は感激した。
いつか夢見た着物の贈り物。一振りでいいからいい着物を夫に贈られたい。
その夢が叶った。
あまりに豪華な反物、帯でいっぱいの部屋で早苗はしばらく何も言わずに眺めていたが、夫に助言を請うことにした。
「助三郎さま、どれが似合うか見てくれる?」
「わかった」
反物と帯選びを始めたが、助三郎は役には立たなかった。
なんでも似合うと褒めまくり、途中からは早苗しか見ていなかった。
一挙一同を見つめ、着物などどうでもよくなっていた。
仕方なく、よさそうな候補をいくつか残し、女将に意見を聞くことにした。
経験豊かな女将は、桃色の反物と西陣織の金糸の豪華な帯を選んでくれた。
それを見た助三郎は、またも喜んだ。
「うん。よく似合いそうだ。やっぱりその色が一番だな」
「もう、ほんとに考えてるの?」
夫婦のやり取りを微笑ましく見ていた女将はうらやましそうに言った。
「……旦那さま、奥さまにベタ惚れでございますね」
「そうですか?」
「はい。あんなに喜ばれて、武家の旦那様にはお珍しい」
その言葉通りだった。
普通の武家の男なら、人前で妻に容易く笑顔など見せない。
しょっちゅう町人のふりをしていることが原因かもしれなかった。
「すみません……」
「いいえ。仲が良くて、うらやましいですね」
用事を済ませた二人は、選んだものを国に送ってもらうことにして藩邸へ帰宅した。
早朝の出立。早く支度を済ませ、身体を整えておかなければいけない。
足早に藩邸へ戻る途中、早苗は前を歩く助三郎に礼を言った。
「助三郎さま、ありがとう……」
「いや。お前の気に入ったの見つかって良かった。着物に仕立てたら、見せてくれよ」