金銀花
《09》香代の一大事
「おい。こんな所で気絶しないでくれ……」
香代は道の真ん中で気絶していた。
以前は力持ちの兄に助けてもらったが、今はいない。
賢い犬も、身体が小さいのでこればかりは手伝えずに心配そうに鳴いた。
「クゥン……」
「こんな所じゃいけないよな?」
人に見られては何を言われるかわからない。
身の危険を察した千鶴は渾身の力で香代を抱き上げ、人目に触れない林の中へ移動した。
乾いた地面に香代を横たえた。
自分の力のなさに落胆しながら、荒くなった呼吸を整えると、そばでおとなしく座っていた犬に懐から手拭いを出し命じた。
「クロ、この手拭いを水に浸しに行けるか?」
「ワン!」
賢い黒い犬は、千鶴の命令をしっかり遂行した。
千鶴は感心しながらもクロから冷たい手拭いを受け取り、香代の額に乗せ、回復を待った。
「香代……」
目をつぶったままの親友の乱れた鬢を直すうち、ついつい手が顔に行き、頬を撫でていた。
思った以上になめらかで柔らかい彼女の頬を夢中で触れていた。
すると突然香代の眼が開いた。
自分のしていたことにハッとなった千鶴はすぐに手を引っ込めて、ごまかし笑いをした。
「あ、眼が覚めたか? 急に気絶してびっくりしたよ…… ハハハ……」
「ごめんなさい……」
香代の申し訳なさそうなうつむき加減の顔に、なぜか千鶴はドキドキしていた。
「香代が大丈夫なら、それでいい……」
しばらく互いに顔も見ず黙っていたが、遠くでカラスの鳴く声が聞こえた。
もうすぐ日暮、帰る時間。
「もう帰る?」
「え? あぁ…… 送ってくよ」
香代を送っていくことになったが互いに一言もしゃべらなかった。
傍を歩いていたクロが訝しげに何度も二人の顔を見つめたが、当の本人たちもよくわかっていないことが、犬にわかるわけがなかった。
千鶴はもう香代とは会えないのではと、漠然とした不安を感じていた。
自分を見た香代が再び気絶した。自分も、香代に不思議な感覚を一瞬抱いた。
どうなるのだろうと、不安な気持ちを抱えながら歩いていると、香代の家の近くに来ていた。
「じゃあ、ここでいいから」
「あぁ。そうか……」
ぼーっとした様子の千鶴に、香代はそっと声をかけた。
「あの、千鶴?」
「ん?」
「……明後日、会える?」
思いがけないお誘いに、千鶴は驚いた。
香代はいつもの笑顔に戻っていた。
「え? 明後日?」
「うん。明日は一日お稽古だから、明後日」
さっき感じた不安はどこかへ消えた。
また香代と会えると思うと、天にも昇る気持ちだった。
しかし、その感情を抑え、一言だけ返した。
「……もちろん」
もう一言何かを言おうとした矢先、香代の屋敷の中から男が走ってきた。
どうやら、水野家の下男のようだった。
姿を見られては困るので、千鶴はすぐに物陰に隠れた。
下男は焦った様子で、香代を家の中に連れ込もうとしていた。
「お嬢様! 大変です、早く中にお入りください!」
「なにをそんなに焦っているの?」
「良いですから、早く!」
急かされる香代が門の中に消えた後、千鶴はクロと家路についた。
「クロ、家まで競争しようか?」
「ワン!」
約束の日、千鶴はこっそり家をクロと抜け出した。
その日は、大嫌いな親戚が来る。姿が男の千鶴を、事情を全く知らない親戚に知られては困るので、彼女は蔵に匿われる予定だった。
しかし、当の千鶴は約束を守るため、まんまと逃げた。
いつもの待ち合わせ場所に行くとすでに香代がいた。
「おはよう!」
いつものように声をかけたが、香代の返事は弱弱しかった。
「……おはよう」
「どうした? 元気ないな……」
すると、慌てた様子ですぐに笑顔で返された。
「気にしないで。大丈夫だから」
しかし、千鶴は見破っていた。
「嘘つくなよ」
「え?」
「何年一緒に居ると思う? 無理しても、すぐわかるんだよ」
そう言った途端、香代は顔を伏せてしまった。
「…………」
「ちょっと、香代?」
すると、彼女は突然泣きはじめた。
足元のクロは、上から涙が降ってきたので驚き、香代をじっと見上げた。
千鶴は、黙って香代の様子をうかがった。
「大丈夫?」
「千鶴……」
可哀想に思った千鶴はいつもの調子で、香代を抱きしめた。
「泣けばいい。後で話、聞かせてくれるか?」
「うん……」
すると香代の涙は激しくなってしまった。
仕方がないので、人目につかない林の中へ急ぎ、手頃な場所に二人で座った。
泣き続ける香代を黙ったままギュッと抱きしめていた。
しばらくすると、香代の涙は収まり少し落ち着いた。
「もう平気?」
「ごめんなさい。着物が汚れちゃった」
「いいさ。あのうっとおしい兄上のお古だから」
冗談半分でそういうと、香代はさびしそうにつぶやいた。
「……いいな、兄上」
そんな香代にうっすら千鶴は気付いた。
恐る恐る、彼女を傷つけないように聞いた。
「姉上に、何かあった?」
「……えっ?」
言い当てられて驚いたという顔を香代はしていた。
間違いなく、姉に何かがあった。
そこで千鶴は話を聞くことにした。
しかし、話し始めた香代の話に姉は出てこず、家の話だった。
「……あのね、わたしの家、録高が上がったの」
「良かったじゃないか。どれくらいになった?」
香代はよく家格が低いと意地悪な女の子にからかわれていた。
家格も録高も高い家の女の子とは自然と持物、着るもの、髪飾りが変わってくる。
そんなことを一切気にしない千鶴が、香代の一番の友だった。
気の強い千鶴が香代を守り、かばっていた。
「佐々木さまより少し低いくらい」
香代の水野家の家格は早苗の橋野家より少し上なだけだった。
二家とも、中流の下の方。
それが、水戸藩の上位に入る佐々木家と大して変わらないくらいに上がった。
驚くべきことだった。
「大分上がったな…… 父上が手柄でも立てたのか?」
「ううん」
一層香代の顔は曇った。
一家の主が手柄を立てない意外に、録高が上がる理由はまだあった。
さっき感じた香代の『姉』。
それと、家格と録高の急増、これを足して何となく水野家に起こったことが千鶴にはわかった。
「まさか……」
「姉上の手柄なの…… 奥方様付きのお女中やってたでしょ? 殿さまのお手つきになったって」
「そんな……」
千鶴は驚いた。
他人でさえ驚くこと。実の妹の香代にとってはもっと衝撃的に違いない。
「でね、お腹に赤ちゃん出来たって。だから、だから……」
再び、香代は泣き出した。
男兄弟はいない水野家、男との接触などほとんどしてこなかった香代にとって、
『お手付き』だ『懐妊』だの内容は未知の言葉。刺激が強すぎる。
いつかは家を継ぐために、婿取りする為に帰ってくるだろう姉を待っていたのに、こんなことになってしまえば、よほどのことがない限り、二度と水戸には戻れない。
姉に二度と会えないであろう事実に余計に香代は打ちひしがれていた。