金銀花
《03》男兄弟
夕方、早苗は部屋で身支度をしていた。
そろそろ助三郎が帰ってくる時間。朝怒鳴り散らした分、優しく夫を出迎えたかった。
そこへ、憂鬱そうな千鶴がやってきた。
「姉上、よろしいですか?」
「どうしたの?」
「……お風呂が、怖いのですが」
「心配しないで。厠よりもお風呂のほうがましだから。一緒に入ってあげるから」
「……ご迷惑では?」
「弟をわたしの代わりに呼ぶからいいでしょ? ちょっと待っててね」
「はい……」
少し待つと、男に変わった早苗が千鶴の前に現れた。
わざわざ男物の着物を手にした早苗は、着替えも男のままでするつもりだった。
すべては千鶴を思ってのことだった。
「行こうか」
「……すみません、格之進兄上。つきあわせてしまって」
「気にするな。可哀想に、男の裸なんか見たことないだろ?」
「……はい」
「まぁ、一応は自分の身体だ。恥ずかしいけどな」
風呂で早苗は賢い着替えと入浴方法を伝授した。極力見たくない物を見なくて済む。
それは旅先で女に戻ると危険な時によく使う手だった。……もっとも、一度男のまま長期間戻れなくなったときに考え出した方法だったが。
早苗と千鶴は女同士ではちょくよく入っていたが、男同士では初めて。普段とは全く違う入浴だったが、楽しくおしゃべりをし、無事に風呂からあがった。
そのころには千鶴の顔も晴れ、穏やかな表情になっていた。
「ありがとうございました。明日からは一人で入れそうです」
「そうか。また何かあったら遠慮なく言うんだぞ」
「はい」
この様子を仕事から帰って来た助三郎が見て、うらやましそうにつぶやいた。
「……いいなぁ。兄弟で風呂。俺も入りたいな」
この無責任な言葉に早苗はムッとした。
誰が好きで男の姿になって、風呂に入らないといけないのか。まして、本物の男と入るのがどれだけ恥ずかしいか、助三郎はわかっていなかった。
自分が女になったとき、お銀に風呂場でちょっかい掛けられて痛い目にあったのを覚えていなかった。
そんなふざけた態度の兄を見るや否や千鶴は部屋へ逃げてしまった。
一方早苗は眉間にしわを寄せ始めていた。
「格さん。また怒ってるのか?」
「知らん。……もう戻る」
女に戻り、早苗は夫に向かいいつもの一言を言った。武家の妻女の勤め。
「お腰の物を」
すると助三郎は大小を早苗に手渡した。
ついでに、彼女の身なりを珍しそうに眺めてこう言った。
「あれ? そんな着物持ってたか?」
早苗の持っている着物は、娘時代と大して変わらない赤や桃色などの華やかな色だった。助三郎はそれが似合う早苗の姿を気に入っていたが、今の彼女の着物は地味な藍色だった。
男の格之進の時は青色を着ても映えたが、女の時には全然似合わなかった。
一方、千鶴は萌黄色のような色が好きで多く持っているし、よく似会う。
しかし、男になった今はその華やかな可愛い着物は着られない。彼女の好きな髪飾りやお化粧で飾り立てることも、何もできない。
女の楽しみまで奪った夫に、早苗はまたもイラッとした。
「貴方の着物借りてなにも考えずに女に戻ったらこうなりました」
「……へぇ」
部屋の隅に助三郎の大小を安置し、着替えを手伝った。
「悪いが明日一緒に出仕してくれないか?」
「何かあったの?」
早苗は夫と言葉を交わしながら彼が脱いだ袴を受取り、部屋の隅に置いた。
「この前の伊勢の旅の決算報告に誤差があった。もう一度見直しが要るんだとさ」
「間違ってたの? 確認したはずなのに……」
衣紋かけから着物を降ろし、助三郎の肩にかけた。
すると助三郎はフッと笑って早苗をからかった。
「几帳面なお前が珍しいな」
「なに? いやみ?」
そう言うと、早苗はすぐさま肩に乗っかっていた着物を引きずり落とし、助三郎を睨みつけた。
それに助三郎は動じず、落ちた着物を拾い上げて自分で着こんだ。
「まだイライラしてるのか? 落ち着け。たぶん御老公が何か黙って買ったんだろう。ほんの少しの誤差らしいから気にするな」
「……心配だからちゃんと出仕します!」
怒りながらも、手にした帯を広げて、背後から夫の胴に回した。
すると間違えたのか、手を掴まれた。
「ちょっと。帯をちゃんと持って」
しかし、助三郎は早苗の手を離さず、つぶやいた。
「……格さんと仕事出来るのは嬉しいが、弁当が早苗のお手製じゃないのが残念だな」
「……わたしの作ったのがそんなに食べたいの?」
「あぁ。美味いから大好きだ」
そういうと、早苗を正面に抱きよせ耳元で囁いた。
「……内緒だぞ。母上より絶対お前の方が料理が上手い」
誰にも見られてはいなかったが、あまりに恥ずかしいので早苗は夫の腕から離れようとした。
「……もう。お世辞はいい」
しかし、助三郎は離さずにまたも早苗に囁いた。
「ほんとだって。今日は何か作ったか?」
「……煮物」
「じゃあ、全部俺が食べる。誰にもやらない」
「ダメ、わたしも食べるの。おなか減ったから」
「だったら二人で食べようか」
「二人きりは無理。居間で食べないと」
夫婦二人の甘い時間が流れたが、助三郎の言葉で終わってしまった。
抱き締める妻の身体からは湯のいいにおいが漂っていた。
「……そういえば、千鶴と風呂入ったのか?」
「うん」
「俺も、入りたい」
その言葉を聞いた途端、早苗は夫から身体を離してこう一言言った。
「無理よ」
「なんで?」
「あの子は女の子。いくらなんでもお兄ちゃんと入りたいわけがないでしょう?」
「ちぇっ。じゃあ、一緒に寝よう!」
諦めると思いきや、突拍子もないことを言った助三郎に早苗は驚いた。
「は!?」
「……兄弟で寝たいんだ。俺の夢なんだ。元服したらすぐ一人部屋でさ、ずっとさびしかったんだ」
そう言うものの、早苗は知っていた。
彼が一人で寝たくない理由はただ一つ。
「……おばけがこわいからじゃなくて?」
「……それは夏だけだ。いいだろ? お前だって千鶴とたまに寝てるだろ?」
「あれは、姉妹だからいいの!」
軽口は叩くが、さびしがり屋の夫が可哀想になった。
しかし、先ほど覚えた怒りはまだ収まってはいなかった。
そこで、夫に対してお仕置きをすることにした。
いつもどおり家族で食事をとった後、すぐに寝所へ向い布団を一つだけ敷いた。
助三郎は未だ無理強いをしてこないし積極的に誘ってこない。早苗を気遣ってのことだったが、あまりに夫婦で過ごす夜の回数が少なすぎた。
……この習慣が後々厄介なことになるとは、このとき二人とも思ってはいなかった。
早苗は夕方の甘い一時、夫とそういうことしたい気分になったが、ふざけ過ぎの彼を見たら気分が萎えた。
そこで、彼にとって強烈な罠を仕掛けるつもりだった。
支度が済むと、早速早苗は布団の中に潜り込んだ。
しばらくすると、助三郎がやってきた。
部屋に一枚しか布団がなく、その中に妻がいる。
助三郎は珍しく積極的に誘おうとした。