金銀花
まんまと、早苗の罠に落ちた。
「……早苗、いいのか?」
返事がないのは恥ずかしがっているせい。
そう思った助三郎は、安心させるためにそっと布団の中の妻の手をつかんだ。
しかし、それは大きな男の手だった。
「……え?」
怖くなった助三郎は、布団をはがした。
すると中からは義弟、格之進が現れた。
「……お前、何してる!?」
「姉貴に譲ってもらったんだ。今日は俺の番だ」
そういう格之進は、いつもの格之進ではなく、助三郎が怖がる『格之進その二』だった。
『その二』は男好きの危ない性格。助三郎をどうにか自分の物にしようと助三郎を何度も襲っている。 ……すべて未遂に終わっているが。
「助三郎。かわいがってやるから来い」
「ちがう!格之進その二は嫌だ!」
「良いだろ助三郎!」
そういうと格之進その二は逃げる助三郎を張り倒し、羽交い絞めにした。
「離せ!」
「いやだ。俺の大事な助三郎だ。朝まで離さないからな」
「早苗! 助けてくれ!」
次の朝、美佳はまたも怒っていた。
息子はおろかいつも早起きの嫁まで遅刻、娘もようやくのろのろと起き上がってきたことに不満顔だった。
だが、そんなことしていても何も変わらない。傍で仕事を終えていた若い下女に息子夫婦を起こしてくるように頼んだ。
ところが、下女は帰ってこなかった。代りに台所の隅で若い下女の黄色い妙な声が聞こえ始めた。
そこでしかたなく美佳は、あくびを噛み殺している千鶴に任せることにした。
「助三郎と早苗さんを起こして来て。早く起きなさいと」
「……はい」
返事はしたものの、千鶴は気が進まなかった。
以前、格之進と美帆がいちゃつく光景を目撃し、それを兄夫婦にとがめられた。
今では覗き見厳禁の夫婦の寝室。しかし、母に命を受けた今、踏み込まないで帰れるわけがない。
再びあくびをしながら、ふすまをそろりと開けると、そこにはあり得ない光景が広がっていた。
そのおかげで半分寝ていた千鶴の頭は一気に覚めてしまった。
少し経つと、夫婦の寝室にバタバタと走る音が聞こえ、美佳の怒鳴り声が響いた。
手には箒をもっていた。
「助三郎! 格之進! 離れなさい!」
手にした箒で、二人を引き離そうと躍起になった。
部屋には夫婦の姿はなく、男二人しかいなかった。
早苗と助三郎は柔術の鍛錬さながらの取っ組みあいで疲れ果て、そのまま寝ていたのだった。
「母上、全く起きる気配ありませんよ……」
「千鶴、あっちに行ってなさい! こんなもの見てはいけません!」
箒で叩いたところようやく二人は目を覚まし、慌てて離れた。
しかし、美佳の怒りは収まらなかった。
「助三郎、いい加減にしなさい! 格之進、貴方もなんですか!?」
「義母上、私は女です。なんでもございません」
「助三郎、貴方は武士。男色も仕方ないかもしれませんが、格之進だけはダメです! 義理でも弟に手を出すなどもってのほか!」
「母上、私は格之進に手など出しては……」
「そうです。助三郎は潔白です」
二人で交互に無罪を主張したが、彼女は聞いてはいなかった。
「どっちでもよろしい! とにかく男色は千鶴が居る限り一切禁止です!」
「男色なんかじゃありませんって……あれが居なくなってもしませんって」
「静かになさい!」
寝間着のまま、二人は布団の上に並んで正座させられお叱りを受けた。
大の男が二人で叱られている光景は珍しかったようで、さっき黄色い声をあげていた下女たちが覗きに来てこそこそ面白がっていた。
そんな中、突然落ち着きなく、もぞもぞと動き始めた助三郎は、その場から逃れようとし始めた。
おとなしく、義母の話を聞いている早苗にそっと耳打ちをした。
「……格さん、ここらで逃げるぞ」
「え?」
「……遅刻する。飯は抜きだが仕方ない。着替え持って行くぞ」
そう言うと、すぐさま助三郎は部屋を飛び出した。それに負けじと早苗も後を追った。
背後から美佳が叱責する声が聞こえたが、無視して突っ走った。
しかし早苗は義妹に忠告することを忘れなかった。
「千鶴、今日出歩くんじゃないぞ。いいな?」
「はい……」
兄二人が出仕した後、一人部屋で籠っていた千鶴だったが、やはり友達との約束を何も告げずに破ることはしたくなかった。
どうにかして、相手の香代に謝りたいと考えた。
そこで、まず文を書いて見た。しかし、筆跡は男の書く固い字になっていた。
早苗にこの話は聞いていたが、あまりに違う字で愕然とした。これでは、怪しまれる。
次に仲の良い若い下女に言伝を頼もうとしたが、呼び出して前に座らせた途端に顔が赤くなった。千鶴は気にせず、話し始めたが、下女の方がしどろもどろな会話しか出来なくなった。
伝言も失敗に終わった。
結局、自分で約束の場所に向かうことにした。どうせ顔を見られても、誰にも迷惑はかけない。
香代に、『千鶴の親戚』とでも言っておけば怪しまれない。
そう考えた末、身支度をして家を抜け出した。
彼女の後をなぜか、庭で暇そうにしていた飼い犬のクロが追いかけて行った。
待ち合わせの場所に刻限より早く着いた千鶴は、くっついてきたクロと遊んでやった。
黒い犬はコロコロ転がり、元気にほえて尻尾を振っていた。
それでも香代は来なかったので、クロの大好きな棒遊びをすることにした。
手近な枝を見せると、クロは目を輝かせ吠え始めた。
「よし、棒きれ投げるから取ってこいよ」
「ワン!」
真黒い塊が遠くへすっ飛んで行くと、千鶴は一人しゃがみ込んでうなだれた。
「やっぱり、しゃべり方が男だ…… いやだな……」
義姉の早苗が格之進になると、完全に男の話し方になる。『わたし』と言うつもりが『俺』に勝手に変わって、かなり男っぽい口調になる。
千鶴も同様だった。しかし、早苗は好きな仕事を好きな夫とできるので、男の姿を嫌ってはいなかったが、千鶴は大嫌いな『男』という生き物に自分がなっているのが、苦痛でたまらなかった。
そんな時、突然何者かに肩をポンと叩かれた。
「千鶴、待った?」
「わっ!」
すぐさま振り向くと、そこには約束の相手、香代がいた。
しかし、彼女は顔を伏せ、謝り始めた。
「申し訳ございません。人違いでした」
「……香代か、びっくりした。人違いって、俺だよ」
気を抜いて、千鶴は何も考えず親友に笑いかけた。
すると、見ず知らずの男を前にした香代は驚いてこう聞いた。
「あの、貴方は? お会いしたこと、ありましたか?」
千鶴はこの言葉にぎくりとした。
「あっ…… その、千鶴さんの代理で来ました。約束に来られないって。えっと、彼女、風邪引いて寝込んじゃって……」
適当な言葉ではぐらかすと、香代は信じてくれた。
胸をなでおろした千鶴だったが、
「やっぱり風邪でしたか…… では、お見舞いに……」
香代の予想外の言葉に、慌てた。
「ダメ!」
「どうしてですか?」
香代はそう言うと、千鶴を下から見上げた。