雪柳
「早苗さんの赤ちゃんといつか遊びたい。だから、絶対諦めないで。ずっとクロが早苗さん守るから。犬はお守りなんだよ!」
最後の妙な言葉が早苗は気になった。
「へ?」
「おじいちゃんに教わったの。犬は赤ちゃん守る動物だって。
だから、クロはずっと早苗さんの傍に居る! 産まれてくる赤ちゃん守る!」
犬は安産の象徴。それを光圀はクロにわかりやすく教えたようだった。
主と飼い犬の優しさを痛感した早苗の眼に、涙があふれた。
知らない間に、姿は元に戻っていた。
「……おいで、クロ」
「なに?」
早苗はクロをギュッと抱きしめた。
「あなたは賢い子。大好きよ」
「クロも早苗さん大好き」
早苗はクロにそっと自身の決意を告げた。
「……赤ちゃん頑張ってみる。応援してね」
「うん」
そのまま早苗はクロを抱きしめ続けた。
すると、クロが呟いた。
「……温かい。母ちゃんみたい」
「へ?」
はじめて彼の口から聞く『母ちゃん』の言葉。
早苗に向かって言うことは一切なかった。
やはり母親には成り得ないと改めて痛感したと同時に、クロの過去が気になった。
捨て犬だった彼のこと。辛いものでは聞きづらい。
しかし、早苗はすべてを受け入れるつもりで、彼に聞いた。
「お母さん、覚えてるの?」
そう聞くと、クロは少し悲しそうにつぶやいた。
「……匂い忘れちゃったけど温かかった。優しかった。でもね……」
「でも?」
するとクロは俯いたまま、早苗の着物の柄を見詰めながら言った。
「……母ちゃんの飼い主はびんぼうだったんだって。それで、クロとにいちゃんたちは家に居られなくなったんだって。……あ、これはね、にいちゃんに聞いたの」
捨てられていたときは五つ仔だった。
仔犬が入っていた籠の中には、『仔犬を頼みます。可愛がってください。』という書付があった。
そう書いた以上、飼い主は悪い人ではない。そう早苗も助三郎も思っていた。
「クロが覚えてるのは。助さんに助けてもらった日の朝にね、母ちゃん泣いてたこと」
クロの言葉に、早苗は驚いた。
「えっ……」
「母ちゃん、ずっと『ごめん』って言って泣いてた。でも、いっぱいなめてくれた」
早苗はいつも元気な飼い犬の悲しい過去に、たまらず涙した。
するとクロが、早苗の涙を手でぬぐい、真剣な眼で訴えた。
「泣かないで。泣く顔と声、大キライ。見たくない!」
泣き顔を見たくないと訴える彼に、早苗は約束した。
それは、同じようなことを訴えたことのある、最愛の人への約束でもあった。
そして涙を袖で拭うと、笑顔で言った。
「……あなたの前では絶対泣かないわ」
「約束だよ。ずっと笑っててね」
「えぇ。約束するわ」
しばらくクロを抱きしめていた早苗だったが、時が迫っていた。
懐から解毒剤を取り出し、手に乗せた。
覚悟はできていた。
しかし、ふとあることをクロに聞いてみたくなった。
「最後に一つ聞いてもいい?」
「なに?」
「格之進を嫌う仔がいっぱいいるけど、理由知ってる?」
それはどうしても知りたかったことだった。
今まで馬に振り落とされ、猫に逃げられ、抱っこしていた犬に暴れられた。
早苗の姿では寄ってきてくれる動物も、ほとんど近寄ってこなくなる。
大丈夫なのはクロと、国に残してきた愛馬と野生の動物くらい。
クロはすぐにその答えを早苗に教えた。
「格さん怖いっていうこが言ってたのはね、不思議な匂いがするからだって」
「不思議な匂いって?」
「格さんの時にね、クロが食べた秘薬の匂いが少しだけするの。それが怖いんだって」
「……そうなの?」
普通では考えられない能力が付く秘薬。
その異様さが、敏感な動物には恐ろしいものだったようだ。
しかし、それを教えてくれたクロは笑顔で言った。
「クロは平気だよ。格さん優しい。早苗さんと一緒だもん!」
「ありがとう。クロ」
早苗はもう一人の自分を受け入れてくれるクロを、本当に愛おしく思った。
しかし、もう未練は無かった。
潔くクロに解毒剤を手渡した。
「またねクロ」
「またね。早苗さん」
大人しくクロは飲み込んだ。
少しすると、早苗の眼の前には真黒の犬が座っていた。
まぎれもなく、クロだった。
早苗は彼の頭を撫でて言った。
「クロ。戻ったわよ。尻尾、ちゃんとあるわよ」
クロはくるりと回って尻尾を確かめる素振りをした後、それを大きく振った。
そして早苗の顔を見て吠えた。
「ワン!」
「……へ?」
早苗は自身の耳を疑った。
身支度をほぼ済ませ、早苗と犬に戻ったクロを待つばかりだった助三郎は、光圀と茶をすすっていた。
静かな部屋だったが、二人の耳に、人が走る足音が聞こえた。
「あれは何でしょうね?」
「騒がしいの。何かあったのかの?」
しかし、その足音は次第に大きくなり、彼らが居る部屋の前で止まった。
そして思いっきり障子が開いた。
勢い余り、それが外れて吹っ飛んだことに二人は驚いた。
状況が把握しきれてはいなかったが、助三郎はとっさに主を庇いに入った。
「なんだ!? 押し込みか!?」
「助三郎!」
障子を吹き飛ばし、破って部屋に突入してきたのはのは強盗ではなく、格之進だった。
助三郎は光圀をかばったまま、吹き飛ばされた障子を見てぼやいた。
「……なんでそんな怪力なんだ? ……元が早苗だなんてやっぱり信じられん」
「何ゴチャゴチャ言ってんだ!? 助三郎! 大変なんだ!」
「は? なにがだ!?」
光圀は危険を感じ、部屋の隅に自分の湯呑と急須を運び、傍観を決め込んだ。
一方、早苗は助三郎の胸ぐらをつかみ、激しく揺さぶった。
突発的に男に変身したらしく、今自分が男だと意識していない様子だった。
そのせいで力加減が全くできていなかった。
揺さぶられながら、助三郎は精一杯抗った。
「本名を大声で言うな! 揺さぶるな! 頭がおかしくなる! 力が強すぎる!」
すると早苗は揺さぶるのを止めた。
そして大声で言った。
「助さん! 大変なんだ!」
この期を逃すまいと、助三郎は眼の前の男を落ち着かせようと試みた。
「格さん! 落ちつけ、今お前男だぞ! 早苗じゃないぞ! わかってるか!?」
そう言い終わるや否や、格之進は手を離した。
助三郎は背中を思いっきり畳にぶつける羽目になった。
「痛い! いきなり離すなよ……」
一方の早苗はさっきまで胸ぐらをつかんでいたその手を眺め、呟いた。
「あ、ほんとだ…… 男だ。すまん!」
「俺より、部屋を見てみろ。お前、色々やらかしたぞ……」
そう言われた早苗は周囲の惨事を目の当たりにして恥じた。
せっかくまとめた助三郎と光圀の荷物はバラバラになり、障子は破れてボロボロ。
湯呑が一つ割れ、茶がこぼれて畳に染みを作っていた。
「しまった! 弁償に幾ら掛るかな?」
そう言いながら早苗は自分の荷物から、算盤を取り出し、それを弾いて何かを算出し始めた。
そんな姿を眺めた助三郎は呟いた。