雪柳
《02》にんげん?
犬の朝は早い。
早苗と助三郎に挟まれて眠ったクロは一番に目覚めた。
大きく伸びをした後、用を足すために部屋を出た。
仔犬のころに、さまざまなしつけを早苗や弥七から受けていたクロは、行儀よく外に出た。
宿屋の庭の隅にちょうどいい草むらがあったので、そこで用を足していると、突然声が掛った。
「坊や、そこで何をしてるんだね? 裸足じゃないか。寒くないのかい?」
クロは驚いて振り向いた。
声の主は、宿屋の主だった。
昨日、部屋に挨拶に来た彼は『可愛いお犬様だ。』と優しくクロを撫でていた。
クロは思ったことをそのまま声に出した。
「おじちゃん。早いね」
「そうかい? 坊やも早いねぇ。だが、お前さんみたいな子、泊まってたかねぇ?」
会話が成立したことに、クロは驚いた。
いつも『なんだ?』と解ってもらえず、笑われるのが落ち。
「……犬の言葉わかるの?」
「犬? 残念ながら犬の言葉はわからないねぇ」
宿屋の主人に笑われたが、クロは彼に問い詰めた。
「でも、クロの言ってること、わかるんでしょ?」
「もちろん。男の子の言うことはしっかりわかるよ」
クロは耳を疑った。
「……男の子?」
「坊やは、男の子だろう? 女の子には見えないからねぇ」
『犬』『お犬様』としか呼ばれたことが無い。
飼い主からは『クロ』。
不思議な感覚にとらわれたクロは、呟いた。
「……にんげん?」
すると、男は少し引きつった笑みを浮かべて言った。
「そんなこと言って、まさか、妖《あやかし》かい?」
「ううん。クロは犬だよ。ほら、尻尾が…… あれ? ない!」
自慢の尻尾が無いことに気付いたクロは必死にそれを探した。
しかし、どこかに落ちているわけでもない。
くるくる回るクロを見て男は笑った。
「寝ぼけたのかな? さぁ、まだ早いからもう一寝入りしてきなさい。お母さんが心配するよ」
そう言って自身も欠伸をしながら去った。
一人残されたクロは立ち尽した。
はっと我に返り、自分の姿を確認し始めた。
尻尾は無くなっていた。その代わりなのか、頭にはそれと同じ長さ程で結って垂れる髪の束があった。ぴんと立っていた耳も、良く効く鼻も人間の物に。
手も足も人間に変わり、二本足で立っていた。
真黒の毛皮は、同じ色の着物に変わっていた。
「クロ、にんげん?」
そう声に出したが、違和感は全くない。
いつも飼い主に向かって必死に語りかけている時と一緒だった。
いつも理解してもらえなかった言葉が、今は理解してもらえる。
頭の中でそう整理したクロは、とっさに思いついた。
「そうだ!」
クロは、走って宿の部屋に戻った。
「助さん! 起きて!」
クロは、走ってきた勢いで助三郎に飛び乗った。
彼は未だ布団の中だった。
「ぐへ!」
みっともないうめき声をあげた助三郎だったが、すばやく枕元の脇差をつかみ、次の瞬間構えていた。
さすがは水戸随一の剣豪。
「曲者! どこだ!?」
怒声をあげる主人に、クロは手を振ってぴょんぴょん跳んで呼びかけた。
「クロだよ! くせものじゃないよ!」
「は?」
助三郎は眼の前の見知らぬ男の子に、驚き眼を皿のようにしていた。
わけがわからなくなった彼は、隣の妻を起こそうとした。
朝早すぎて、いつも早起きの早苗も起きてはいなかった。
「……早苗、起きろ。大変だ」
しかし、布団の中からは眠そうな声しか聞こえてこなかった。
それを見たクロは元気よく言った。
「クロがおこしてあげる!」
そしてさっきと同じように、布団の膨らみの上に飛び乗った。
すると、同様のうめき声と共に、怒鳴る男の声が部屋に響いた。
「誰だ! 痛いだろ! 腹の上に乗るな!」
起きてきたのは、早苗ではなく格之進だった。
「あ、格さんだったか……」
道中ではお供二人は寝ている間も護衛の仕事。
そのため必ず男の姿で早苗は眠った。
それ故、昨晩のような光圀不在で気を張る必要が無くとも、癖で寝ている間に男に変わる事が多かった。
早苗は男のまま、眉間にしわを寄せ、不快感を露わにした。
「男でよかった。女だったらあばら折れてるぞ……」
すると、クロはしゅんと萎れ、悲しそうな声で言った。
「ごめんなさい。クロそんなに重かった?」
寝起きすぐという状況と、見知らぬ男の子の存在に、早苗は頭が混乱していたが、優しく声をかけた。
「坊や、クロって言ってるが、うちの黒い犬を見なかった? ここに寝てたはずなんだけど」
すると、クロは必死に訴えた。
「クロはここだよ! にんげんになったの!」
「は?」
早苗と助三郎は二人でしばらくぽかんとしていたが、助三郎が先に立ち直り、こう聞いた。
「格さん、昨日秘薬がどうのこうの言ってなかったか?」
「あぁ。一粒足りなかった。だが、この子男の子だろ? 違うんじゃないか?」
秘薬には、性を反転させる力しかないはず。
そう信じる早苗は、眼の前の男の子が犬のクロだとは思えなかった。
一方の助三郎は念のためと、男の子に尋問し始めた。
「なぁ、坊や、昨日格さんの荷物に悪戯したか?」
「……うん。ごめんなさい」
「その時、何か食べたか?」
「うん。変わった匂いのするまずいやつ食べた」
「まずいってどんな味だった?」
「甘かったかな? 苦かったかも。よくわからないけどまずかった!」
その言葉に助三郎と早苗は確信が持てた。
秘薬は苦いような甘いような妙な味。
経験者二人は、秘薬のその味をよく覚えていた。
「……本物だ。この子はクロだ」
男の子をクロだと認知した二人は、不思議がってクロを質問攻めにした。
そのたび、クロは元気よく答えた。
「名前は言えるか?」
「うん。クロだよ!」
「歳は?」
「たぶん二歳!」
二人の元に来た時は仔犬だった。
結婚前の事だから、年齢はそれで正解だった。
今の見た目は、五歳くらいの男の子だったが。
どうしても聞きたい質問が二人にはあった。
「飼い主の名前は?」
「助さんと早苗さん。あと格さん」
その言葉に早苗は驚いた。
飼い犬が、男の姿の自分を認知していることに。
しかし、別々として捉えているのではとも思い、思い切って聞いてみた。
「……俺のもう一つの名前は?」
「早苗さん」
早苗は再び驚いた。
「……解るのか?」
「早苗さんが変身して格さんになるの。今変身中」
賢い飼い犬に、飼い主二人は喜んだ。
そして、質問を続けた。
「好きなものは?」
「骨と甘い卵焼き!」
早苗が作る卵焼きはほんのりとした上品な甘さだが、助三郎のお手製は菓子のように甘い。
料理は上手くなった助三郎だが、未だ卵焼きだけは味付けがおかしい。
「じゃあ、嫌いなものは?」
「助さんの硬いおにぎり!」
「失礼な!」
助三郎の握り飯は硬い。
クロはそれを食べずに地面に埋める。
その光景を思い出した早苗はクスッと笑い、夫を慰めた。
「助さん。本当の事だ、諦めろ」
「そりゃないだろ……」