凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》
<04> 真実
日が暮れて暗くなり始めた頃、九壱郎は上司の執務室へ報告に向かった。
丁度彼は行燈に火を入れていた。
『只今、佐々木を投獄いたしました』
その報告を聞くと、平居は九壱郎を振り向いた。
『御苦労。それで、あの下女は?』
『御指図通り、別室に留め置いてあります』
助三郎の所行を通報したのは、佐々木伊右衛門の下女お袖。
平居はそれに対し思うところがあったので、彼女をそのまま帰しはしなかった。
『わかった。では、今日はこれでもう下がってよいぞ』
『はっ』
彼が去った後、平居は小さな帳面を懐から取り出した。
長年使っていたと見え、手垢で薄汚れ綻びも目立った。
それを一項一項、感慨深そうに眺め呟いた。
『龍之助。もう少しだ…… 許してくれるか?』
彼は帳面に何かを書き込み、再び懐にしまった。
そして行燈の灯を静かに消すと、執務室を後にした。
『ほら、夕飯だ』
牢屋では、牢屋番が助三郎に夕食を差し入れていた。
大きな三つの握り飯と、急須。
『ありがとうございます』
彼は大人しくそれを受け取った。
食欲はなかったが、腹の虫が大きく鳴った。
自分が腹が減っているのだと、実感した。
食欲が出てきた助三郎は、黙々と握り飯を口に運んだ。
そして、急須の水を飲み干した。
ようやく人心地がつくと、今自分が置かれている状況を確認した。
牢屋番は近くに居ない。牢に他の罪人は居ない。
既に夕暮れだが、日の光はほとんど入らない暗い牢。
助三郎は大きなため息をついた。
しかし、今、何も考えたくなかった。
そのままごろりと床に横たわると、目を閉じた。
次の日の朝、助三郎は誰に起こされるでもなく、目覚めていた。
否、眠れていなかった。
なぜなら、酷く寝つきが悪く何度も悪夢にうなされたのだった。
彼の夢には、手に掛けた大叔父や、遊女に身を落とし、他の男に抱かれる早苗が現れた。
そのあまりに鮮明な光景に、彼は酷く苦しみながら夜を明かした。
『おはよう、助三郎』
突然、穏やかな声が牢の外から掛かった。
平居だった。
彼に気付いた助三郎は飛び上がらんばかりに驚いた。
『これは、平居様! おはようございます!』
助三郎は、身形を手早く整えると正座した。
普段から色々と良くしてくれる彼の手前、みっともない格好は出来なかった。
しかし、平居は助三郎を見るなり眉間にしわを寄せ、
『九壱郎は気が効かんな。これ、綺麗な着物と、手ぬぐい、盥に水を張って持ってこい』
そう牢屋番に命じた。
助三郎は昨日のままの姿だった。
体中が浴びた返り血、傷から出た自分の血、泥で汚れていた。
『ひとまず身形を改めろ』
その言葉にしたがい、彼は体を清め、衣服を改めた。
『そういえば、朝飯は食べたか?』
『いいえ……』
その返事に呆れたように溜息をつくと、彼は再び見張り番に朝餉の仕度を命じた。
牢に入っているにもかかわらず、己に良くしてくれる彼に、助三郎は感謝の気持ちをもって深々と頭を下げた。
『罪人にもこのように人として扱って頂き、有り難い限りです……』
助三郎が粗末な朝餉を終えると、平居は牢屋番を遠ざけた。
そして神妙な面持ちで言った。
『この度の佐々木伊右衛門殺害の件だが……』
助三郎は腹に力を込め、沙汰を待った。
しかし、帰ってきた意外な言葉に、彼は驚きを隠せなかった。
『細かい話は後にして端的に言う。お前は、罪人にはならん』
『……それは、どういう事ですか?』
『詳しいことは今晩、美佳殿と千之助をここへ連れて来る。そこで話す。いいか?』
全く話が見えない。
しかし、ここは大人しく従うのが筋と彼はそれ以上何も聞かなかった。
『しばらくはこの牢で辛抱してくれ……』
『はい』
平居は表情を和らげ助三郎に聞いた。
『それまで、なにか希望はあるか?』
助三郎は迷わず答えた。
『早苗をお助けください!』
平居は驚いた。
『早苗殿がどうした? 江戸で一緒の役宅だったろう?』
彼は千之助の親代わり。早苗の事も承知だった。
『……そうです。しかし、大叔父が私の留守中に下男を遣って早苗を手込めにさせ、遊郭に売らせたと言っておりましたので』
平居はこの時、助三郎が大叔父と立ち合った理由がわかった。
そして、佐々木伊右衛門に強い憤りを感じ、唇を噛み締めた。
しかし、彼は冷静に穏やかに言った。
『……助三郎、落ちついて良く考えてみろ。早苗殿は格之進に変化出来るではないか。違うか?』
『あ……』
助三郎はこの時やっとそのことに気付いた。
夫の自分ですら、本気を出した『格之進』には素手ではもう敵わない。
『彼』に敵う男は水戸藩には既に居ない。
それ故、ただの下男が『彼』に勝てるわけがない。
しかし……
『国一番の柔の使い手に失礼だぞ。助三郎』
平居は冗談半分で笑いながら言った。
しかし、まだ彼は不安をぬぐい去れなかった。
『それは、そうでございます。が……』
彼の不安な眼差しを見た平居は、安心させようと具体的な策を提案した。
『今すぐ江戸の渥美の所在と安全を確かめよう。それならいいか?』
『はい! ありがとうございます!』
助三郎は深々と頭を下げた。
牢に入っている己の事より、妻の事が大事な彼を平居は笑った。
しかし、ふっと寂しげな顔で呟いた。
『本当にお前は父上そっくりだ……』
その夜遅く、牢に美佳と千之助がやって来た。
美佳は開口一番、助三郎を責めた。
『何故刀を抜いたのですか? 話し合いで解決するのでは無かったのですか?』
『申し訳ありません……』
助三郎は謝ることしかできなかった。
『……わたしはあの男が嫌いです。でも一応身内。それを殺す罪はどれくらい重いか、解ってるでしょう?』
『はい……』
顔を上げない彼と、責め続け得る母。
千之助は黙って見ていたが、いきなり口を開いた。
『私も、兄上と同じことをしたと思います……』
『千之助!?』
怒りを顕わにしている弟を眼にし、母と兄は驚いた。
『大叔父が生きている限り、兄上は義姉上と。私も、香代と安心して暮らせない。義姉上も私も、正体の露見が怖くて毎日ビクビクしていました……』
大叔父の佐々木伊右衛門は、光圀亡きあと千之助の正体を怪しみ、探りを強化していた。
なかなか諦めなかった彼に、千之助は辟易していた。
『大叔父は、無駄に長生きし過ぎだったんだ…… 兄上が手を汚す前に、自分から早く死んでくれれば、よかったのに……』
この言葉に、美佳と助三郎は何も言い返せなかった。
二人とも考えは千之助と一緒。
大叔父が長生きさえしなければ、何の問題もなく過ごせたにちがいない……
そう思っていた。
三人が黙りこくったまま、時が過ぎた。
そこへ、平居が現れた。
『美佳殿、お久しぶりです』
『これは、平居さま…… 息子が、ご迷惑をおかけしました……』
美佳は深々と頭を下げたが、平居は彼女の頭を上げさせた。
作品名:凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》 作家名:喜世