凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》
己のせいで精神を病んだ早苗が、懐剣を胸に突き立て、自害しようとする瞬間の光景だった。
『うぐっ……』
助三郎は酷い眩暈と猛烈な吐き気に襲われた。
手にしていた脇差は、手から離れ、地面に転がった。
耳に響く、早苗のどなり声……
脳裏に浮かぶ、早苗の血走った目、笑うことを忘れた顔……
永遠に封印しようとしていた記憶。
鮮やかに甦っていた。
『いやだ…… 怖い…… もう、思い出したくない…… いやだ…… 早苗……』
助三郎は自害も忘れ、その場で震えていた。
その時、突然邸が騒がしくなった。
物々しい格好をした役人たちが、次々となだれ込んで来た。
その中の頭と見える男が、大声を張り上げた。
『神妙に致せ! 下手人は何れに!?』
助三郎はその声に助けられた。
恐怖の記憶から解放された助三郎は、逃げも隠れも自害もしないことに決めた。
『ここに居ります……』
しかし、大勢の役人たちが助三郎を取り囲み、騒いでいた。
彼の声は役人の頭には届かなかった。
『うるさい! 騒ぐな! 退け! 邪魔だ! だからこんなに人数は要らんって言ったのに…… それで、下手人は……』
男たちをかき分けかき分け、文句を言いながら、役人の頭は助三郎を探していた。
『ここです。逃げも隠れもいたしません!』
助三郎が声を張り上げると、やっと目当てを見つけた頭は喜んだ。
『おぉ! 罪人ながら殊勝な心構え! あっぱれだ! ……あれ? うそ、助ちゃん?』
突然口調が砕けた役人に、助三郎は驚いた。
それ以前に、己を『助ちゃん』などと少しふざけた呼び方で呼ぶ者は、一人しかいなかった。
『……九壱郎?』
己を引っ立てに来た役人の頭は、幼友達だった。
彼は取り囲んでいた部下たちを皆一旦遠ざけると、助三郎の横に座った。
『……久しぶり。でも、こんなとこでこんな形で会いたくなかったな』
残念そうに言う彼に、助三郎は謝った。
『……すまない、煩わせて。……だが、お前、出仕してたのか?』
助三郎の記憶が確かなら、彼はまだ部屋住みの筈だった。
しかし、
『うん。親父が隠居してさ。先月から出仕してる』
『そうか……』
助三郎の幼友達はほとんどまだ部屋住み。
父親が健在だからである。
早くから出仕している助三郎の周りに同年代が少ない訳である。
『これが結構忙しくてさ、すぐ慣れた。……で、あの仏さん、本当に助ちゃんが?』
九壱郎は、伊右衛門の躯に手を合わせると助三郎に確認を取った。
『あぁ』
『でも、一方的な殺害じゃないよね? 助ちゃん、傷だらけだし。何か理由あったんだよね? 身内と剣を交えないといけなかったってことは……』
助三郎は何も言わなかった。
刀を先に抜いたのは自分。憎さと怒りの感情に任せて、刀を抜いた。
そして、斬った。
罪人として裁かれて当然。
『……助ちゃん、ひとまず役目があるから捕縛するね。でも、取り調べの時には、ちゃんと理由言うんだよ、いいね?』
『ありがとう』
九壱郎は助三郎の肩を叩き、安心させるように笑みを浮かべた。
しかし、瞬時に仕事の顔に戻った。
『下手人を連行しろ!』
助三郎は後ろ手に縄を掛けられ、引っ立てられた。
作品名:凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》 作家名:喜世