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凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》

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『美佳殿、謝ることはありません。それに、助三郎は無罪です』

『なぜですか? 身内に手を掛けたんですよ? 無罪なわけが……』

 驚く美佳のその問いかけに、平居はすぐに答えなかった。
その代わり、彼は突然美佳の前に正座すると、頭を下げた。

 それはまるで許しを請う罪人のような姿だった。

『実は、あの日から今日の今日までずっと調べておりました。……龍之助の死因を』

『え……』

『結論から言います。龍之助は、事故死では有りませんでした……』

 美佳の顔が青ざめ、身体は震えはじめた。
そんな彼女の目の前で、平居は頭を床に擦り付け、悲壮感漂う声を上げた。

『お許しください…… 決して己の責任から逃げたり、罪を他人になすりつけようとしたのではありません……』

 兄弟二人は声を失った。
というよりも、ほとんど父の話を聞かせてもらっていないので、死因だの何だのが全く分からなかった。
 しかし、美佳は当事者。
 震えながらも気丈に言葉を返した。
 
『……貴方さまには何の責任も罪もないと、再三申しているではありませんか。もうあの日のことはお忘れください。貴方さまは今までずっとわたくしたちを気にかけてくださいました。有難く思っております』

 しかし、平居は顔を上げなかった。

『いいえ。今回も私のせいです。私が早く佐々木伊右衛門を法的に処断していれば。助三郎をこのような場所に留置かなくてよかった……』

 罪悪感を背負って今まで生きてきた平居。
美佳はそれをよく知っていた。
 穏やかに救いの手を差し伸べた。

『……平居さま。落ちついて顔を上げてください。よく聞いてください。わたくしは貴方を責めてはいません。これからも責めるつもりはありません』

 平居は、恐る恐る顔を上げ、美佳の顔を見た。
彼女は瞳の奥に悲しみをたたえていたが、穏やかな優しい笑みで言った。

『今日、息子二人があの日のことを知っても、貴方を責めることはありません。貴方は、昔も今も、夫の一番の友人ですから』

 平居はその言葉のおかげか、少し落ち着きを取り戻したようだった。
それを見た美佳は、彼を促した。

『わたくしは覚悟ができました。夫の死因と、助三郎の無実に何の関係があるのか、教えてください』





 平居の話は、兄弟二人にはかなり衝撃が大きい物だった。
しかし、美佳にはもっと大きかったようだ。
 覚悟を決めたと言ってはいたが、彼女は狂ったように泣いていた。

『あの男が、龍之助さまを奪った! わたしから、わたしの龍之助さまを!』

 兄弟二人は、母が父の名を呼び泣き叫ぶ姿を目にし、ただ驚いていた。
しかし、気を取り直した千之助は、母の肩をそっと抱いた。

『母上…… お察しします……』

 すると、美佳はぱっと顔をあげた。

『……龍之助さま? やっと迎えに来てくれたのですか?』

 まるで若い娘のようにすがり付いた。

『母上!?』

 動揺した千之助。
今まで母の『母』としての姿しか見たことがない。

『寂しかったんです…… ずっとこの日を待ってたんです…… 龍之助さま……』

 甘える声を出し、自分に縋りつく母。
それは『女』の姿だった。

『しっかりしてください! 母上! 私は千之助です!』

 しかし、彼女の耳には届いていなかった。
うっとりとした眼差しで、彼女は息子を見た。

『龍之助さま……』

 千之助は助三郎よりずっと父親に似ていた。
その彼を亡き夫と見紛う程の錯乱状態だった。


『……美佳殿には申し訳ない事をした』

 謝る平居の横で、助三郎はただぼんやりと必死に母の腕から逃げようとする弟を眺めていた。
 
『いえ、じき正気を取り戻すと思います…… しかし、やはり千之助の方が似ていますか?』

 助三郎は平居を少し明るくさせようとした。

『見ためはな。性格はお前の方がよく似ている』

『そうですか…… あ、千之助、大丈夫か?』

 揉み合っていた二人が急に静かになった。

『最初からこうするべきだった……』

 千之助は母の鳩尾に一発撃ち込み気絶させると、平居に平伏した。

『みっともないところをお見せし、大変失礼しました』

『……悪いのはこちらだ。本当にすまないことをした。表の部屋に確か布団があった。介抱してやってくれ』





 少しの後、千之助は牢屋へと戻ってきた。

『美佳殿は気がつかれたか?』

『はい。いつもの母に戻りました』

『そうか、それはよかった……』

 安堵した様子の平居。
彼に千之助は言いたいことがあった。

『あの、平居様……』

『なんだ?』

『私は、父の記憶がほとんどありません。父がどんな人だったのか、教えて頂けますか?』

 美佳の言葉通り、彼は自分をこれまでとは違う目で見はしなかった。
彼を笑みをたたえて見つめると、言った。

『これからいっぱい聞かせてやろう。しかし、まずは美佳殿から聞きなさい。母上は、父上とどのように過ごされたのか……』

 しかし、今まで何も語らなかった母が、そうやすやすと語ってくれるのだろうか?
兄弟二人の不安げな表情を見た平居は言った。

『龍之助を失った辛さがあまりに大きかった故、今まで話せなかったのだ。
さっきしかと見たであろう? 美佳殿は本当に龍之助を愛しておられたのだ。お前たち二人に、きっと話してくださる……』

 その言葉を、兄弟二人は信じることにした。





 夜が更けていた。
平居は、二人に今後のことについて説明をした。

『近いうち、佐々木伊右衛門の家宅捜査を開始する。これで確たる証拠は出てくるはずだ』

『はい』

『助三郎。いいな? お前は大叔父を衝動的に殺したのではない。父の仇を討ったのだ』

『はい……』

 そう言われてみても何故だかすっきりしない助三郎。
 
『わしが言うのもなんだが、己を責めるな。罪悪感は、感じるな』

『はい……』

 しかし、助三郎の心は晴れなかった。


『疲れているようだから、ゆっくり休め』

 平居はそう言い残すと、牢を後にした。




 牢には兄弟二人だけ。
千之助は、少しうれしそうに言った。

『兄上』

『なんだ?』

『やっと、兄上って呼べます。兄上も、私を名字で呼ばなくて良くなりますね』

 本当の兄弟。
やっと人目をはばからず、兄弟の付き合いができる。
 そう思った助三郎の鬱々とした心は、少しだが晴れたようだった。

『早く、すべてうまくいけばいいですね』

 千之助は兄を励ますようにそう言うと、静かに牢を後にした。





 しかし、再び一人になった助三郎。
ぽつりとつぶやいた。

『無実、か……』

 喜んでいいはずだが、素直に喜べなかった。

『仇討、か……』 
 
 ふと思った。
 
 自分と早苗を拘束する江戸での仕事。

 それは、赤穂浪士たちのいつあるとも知れない『仇討』の偵察。

 世間一般には、成功すれば大層もてはやされる『仇討』
武士にとっては、仇を討たねば家名復興が叶わぬ大変重要な物になる場合もある。
 一方、直接関係のない町人にとっては、格好の娯楽の種になる。

 幾度か仇討の現場に立ち会った。