凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》
しかし、伊右衛門が口にしたのは、それ以上に恐ろしい事実だった。
『あの女に毒を盛って、処分するように命じたのだ』
『え』
しかし、伊右衛門は何を間違ったのか、月流しの薬を渡した。
それを盛ったところで、死にはしない。
勿論、早苗は毒物混入を恐れ、お袖に家事をほとんどさせなかった。
それに、お袖は主の命に従わずに間夫と遊んでいた。
それゆえ、早苗は無事。
しかし、そうとは知らない助三郎は大いに取り乱した。
『早苗に毒を盛ったとはどういう事ですか!?』
噛みつかんばかりの勢いの彼を、伊右衛門は笑ってなだめた。
『まぁ、茶でも飲んで落ち着け、助三郎』
しかし、落ち着けるわけがない。
助三郎は立ったまま伊右衛門を睨んでいた。
『思い出してみろ。あの女、ぴんぴんしておったろ? 忍び崩れだけあって、解毒剤かなんか持っていたんだろうて……』
忌々しく吐き捨てた伊右衛門。
彼の言葉に考えを巡らせた助三郎の表情は和らぎ、落ち着きを取り戻した。
しかし、伊右衛門はそこで止めておく男ではなかった。
『おや? 助三郎。まだあの女の顔を拝もうなどと思っているのか?』
意地悪く笑う彼に、助三郎は勝ち誇った顔で言った。
『叔父上、何を言われようと、何をされようと、早苗を絶対に手放しません』
そんな彼を蔑んだような目で見た伊右衛門は、ぼそりと呟いた。
『……親も親なら、子も子だな』
そして伊右衛門は、助三郎を追い詰めはじめた。
『しかし、残念だな助三郎。お前が役宅に帰っても、あの女はもう居らん』
『どういうことですか?』
『今回お前が水戸に来るのと入れ替わりに、わしの下男を江戸に遣わした。あの女を手籠めにし、吉原に高値で売れと命じてな』
助三郎は絶句した。
早苗を守るために水戸にまで戻って来たのに、江戸に居る彼女を守れなった。
何もできなかった。
早苗は格之進に変われる。国一番の柔術の腕前がある。
よって護身は完璧。
しかし、助三郎は焦りのあまり、とんと忘れていた。
『たとえ高値で売れず、身請けできる金額だとしても、もうあの女を妻と称して傍に置いておくのは許さん。いいな?』
黙ったままの助三郎を満足げに眺めてそう言った。
『まぁ、これくらいせんと、お前の母親の時の二の舞だからな…… あぁ、やれやれ……』
これで話すべきことはすべて終わったと、大きく伸びをする伊右衛門。
彼とは対照的に、助三郎は猛烈な怒りに震えていた。
いつしか、彼の手は刀の鯉口を切っていた。
『……人の皮を被った化け物め』
『おや? やる気か? 助三郎』
彼は全く動揺を見せず、悠然と構えて笑った。
助三郎より遥かに年を取ってはいるが、彼も相当な剣の使い手だった。
『年とった身内に、刀を向けるのか?』
助三郎は刀から手を離した。それくらいの理性はまだ残っていた。
しかし、次の言葉で再び彼は刀に手を持って行ってしまった。
『たかが一人の女の為に?』
『その女は、私の命! 私の宝だったんです!』
かつて早苗は、助三郎を守るため、己の寿命を削った。
あまりに削りすぎ、命の危機にさらされた。
それを知った助三郎は、彼女を救うため、彼女より先にこの世を去ることを受け入れた。
その時まで、彼女と共に生きるため、彼は必死だった。
しかし、そんな気持ちは伊右衛門には伝わらない。
『どうしてろくでもない女に固執する? ……どこまでも似た者親子だ』
思い出し笑いをする彼を、助三郎は訝しげに見た。
彼は笑いながら、こう言った。
『助三郎、眼を覚ますんだ。あの女は宝などではない。魔物だ』
『なに?』
『お前の母親もそうだ。あの女とお前の母親は、佐々木家に災いをもたらす魔物だ!』
『何だと!?』
『罪人の娘に、賤しい忍びの娘。佐々木家の名に泥を塗る! 災いをもたらす! 魔物以外の何物でもないわ!』
妻と母を貶められた助三郎は、とうとう刀を抜き払った。
『違う! 佐々木家の魔物は、佐々木伊右衛門、お前だ!』
それを見た伊右衛門も。刀を抜いた。
『面白い、やってやろう。身内といえど、容赦はせんぞ!』
腕に覚えのある二人は、互いに刀を振りかぶった。
日が傾いたころ、邸の庭に小さな海が出来た。
それは、真っ赤な海。
夕日が映っているのではない。
真っ赤な海の真中には、伊右衛門の躯が転がっていた。
助三郎は、全身の疲労感と共に妙な興奮を覚えていた。
そのせいか、とんでもないことを口走った。
『早苗、これで邪魔者は居なくなったぞ…… ずーっと一緒にいられるぞ……』
そして、笑った。
大声で笑った。
『お前の為なら、俺は、鬼にも夜叉にでもなれる! 人も殺せる!』
返り血と、己の身体の傷から出た血で染まった姿。
それをさらに夕日が照らす。
彼は真っ赤な姿で、狂ったように笑っていた。
しかし、程無く助三郎は正気を取り戻した。
それと同時に、己が何を仕出かしたのかに気付き、愕然とした。
無意識に口走った言葉を思い出し、罪悪感にさいなまれた。
己の奥底にあった、未知の感情に恐れを抱き、震えた。
「殺してしまった……」
血の海に横たわる冷たく硬くなった大叔父の亡骸。
己の感情に任せて、刀を抜いた。
怒りを原動力に、無心に刀を振るった。
彼を斬ってしまった。
ふっと、伊右衛門のあの言葉がよぎった。
佐々木家に災いをもたらす魔物
しかし、彼はすぐさま打ち消した。
『これは俺の責任だ。早苗は何も悪くない…… 早苗は……』
彼女の名前を口にした時、早苗の無事がひどく気に掛った。
江戸で、彼女は本当に遊女として売られてしまったのか。
いや、何事もなく無事なのか。
『早苗……』
すぐさま江戸に戻ろうかと、彼はその場から一歩足を踏み出した。
しかし、その一歩で足は動かなくなった。
『ダメだ……』
身内を殺して脱藩、出奔。
そのようなことになれば、早苗は無事では済まされない。
結局、彼がしたことは何にもならなかった。
早苗を守るつもりが、危険に晒してしまい、安否もわからない。
佐々木家を守るつもりが、身内を殺害し、家名を傷つけた。
『全部俺の独りよがりだった!』
絶望して、助三郎は地面に崩れ落ちた。
突然、助三郎は顔を上げ、正座した。
腰に差してあった脇差を抜き、両手に持つと、正面に構えた。
そして、鞘から一気に引き抜いた。
その刀身には、一点の曇りもなかった。
そこには、己の顔が映っていた。
髪は乱れ、返り血が乾いて顔にこびり付き、酷い姿。
その姿に失笑した。
しかし、
『何を笑っている。潔く腹を斬るんだ……』
そう自分に言い聞かせた。
逃げれば、親類縁者に類が及ぶ。
自分一人が責めを負い、自害すれば……
そう思ってのことだった。
『早苗。無事でいてくれ……』
刀を腹に突き立てようとした瞬間、彼の脳裏にある光景が生々しくよみがえった。
それは、結婚前のあの忌々しい夜の記憶。
作品名:凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》 作家名:喜世