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ネイビーブルー
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 どうして、負けたんだ。震える唇から零れ落ちた声は言葉にならず、ただの音としてレッドの頭に降り注いだ。あんなに巨大な壁に見えたのに、レッドが何か、他と何も変わりない等身大の青年に見えてぞっとした。
 レッドは何も言わなかった。グリーンが顔色を変えた後も、ただ黙ってグリーンをじっと見ていた。それがまた癪に障る。怒鳴って掴みかかってやろうかとも思ったが、止めた。そんなのは、結局ただのやつあたりにすぎない。勝手に夢を見ていただけなのだ、レッドという存在に。
 グリーンが爆発しかけた怒りを抑えたのを見て、レッドは静かに「おれは、おれを負かす存在を待っていた」と言った。彼が単語レベルではない言葉を話すのは久しぶりだった。意外な顔をするグリーンに、レッドは言葉をつづけた。
「カントーとリーグを制覇してチャンピオンになったとき、おれは頂点に立ったと思った。恥ずかしい話だけれど、ほんの十数年しか生きていないだけのガキが、世界の上に立ったような気分になってしまったんだ。……ポケモンで戦うのが強いからって、何も、ならないことのほうが多いのに」
 同じことを考えたのか、と思った。ポケモン勝負で勝てても、自然の身震い一つには敵わない。それは確か、グレン島で、グリーンがヒビキに言ったことだった。
「おれがチャンピオンに勝ってから、二ヶ月後くらいにグレン島の火山が噴火しただろう。……テレビの映像であれを見て、おれは人間がいかにちっぽけかを感じたんだ。それで、天狗になっていた自分に気づいた」
「だから、シロガネ山に行ったのか」
「人間から離れて、大自然の中に行きたかった。思いあがりもはなはだしいと、自然に怒られてしまいたかったんだ」
 レッドが、あの人間が住むような場所ではないところに滞在していた理由はそうだったのか、とグリーンは納得した。シロガネ山なら自然環境は厳しいところだし、山の内部は洞窟になっているので雨風はしのげる。その上人間もほとんど近づかないが、ふもとにはポケモンセンターもあるから、何か必要なことがあればすぐに行ける。なるほど、彼が求めている環境にぴったりだった。何の備えもなくあそこに行ったなら死にたかったのかとでも邪推してしまいそうだが、彼は別に自然に打ちのめされたかったわけではないのだろう。ただきっと、己は自然に生かされているちっぽけな存在であるということを忘れないためにわざと厳しい場所を選んだのだ。
「吹雪の中で、おれはずっとおれを負かす人間を待っていた。三年間で、自然にはどうやったって敵いっこないことは学んだつもりだ。でも、旅に出た時から、おれはポケモン勝負で人間に負けたことはなかった。だから、誰かおれを負かす人間を待ってたんだ」
 負けたい、という心理はグリーンには分からない。負けたいわけではないのかもしれないが、己を負かす存在を待つというのも分からない。グリーンは負けず嫌いであるし、レッドに勝てなかった過去もあり、勝つことこそが彼の喜びだからだ。しかし、ずっと勝っているというのもそれはそれで何か思うところがあるのだろう。グリーンとレッドがその点で分かりあえることはないが、グリーンはレッドの落ち着いた瞳を見て自らの怒りがしぼんでいくのが分かった。
 しかし、どうしても腹の底でチリチリする「彼が自分以外の存在に負けた」という感情が、消えずに残ってちくちくと心を刺激する。また彼は、待っている人物、つまり自分を負かすであろう人物を、一年前「グリーンではないと言いきっている。それもまた、グリーンの自尊心を傷つけた。だから「で、負けてみた感想は?」と少々厭味ったらしく聞いてやると、レッドがそこで初めて酷く人間らしい感情を見せた。彼はぎゅっと眉を寄せると、厳しい顔で一言、「悔しい」と言った。
「おれを負かす存在を待っていた。でも、本気で戦ったんだ。それなのに、勝てなかった。……こんなに悔しいものなんだね」
 それは、懐かしい幼馴染の顔だった。小さいとき、喧嘩で負けるとレッドはいつもこんな顔をして「悔しい」と言っていた。涙は流さない彼だったが、今にも泣き出しそうな顔だった。グリーンは、そこで本当に、レッドが「帰ってきた」のだと分かった。すとんと肩の力が抜ける。
「……山にはもう、上らないのか」
「……うん」
「……そうか」
 彼を負かしたのも、山から下ろさせたのもグリーンではない。その事実はグリーンを少し苦しめたが、今はそれよりも彼が戻ってきたことのほうが嬉しかった。喜びを前面に出すのは悔しいので、精一杯の厭味ったらしい笑顔を作って「不孝者のレッド君のご帰還を心から歓迎してやるよ」と言ってやると、彼はまたむっとした顔をして、そっぽを向きながら「ありがとう」と答えた。
「で? なんでこんなところにいるんだよ。降りたなら、さっさと自分の家に戻れよ。言っただろ、お袋さん心配してんぞ」
「うん、戻ろうと思ったんだけど……電気玉を手に入れたら、戻る」
「は、電気玉?」
 レッドはこくりと頷き、隣にいるピカチュウの頭を撫でた。ピカチュウは嬉しそうに彼の掌に頭をこすりつけている。
「戦闘で、おれはピカチュウに電気玉を持たせていたんだけど、ヒビキくんと対戦した時に彼のマニューラに『どろぼう』されてしまったんだ。それで、ピカチュウが電気玉がないと嫌だというから」
 電気玉というのは特別な道具で、トキワの森に住んでいるピカチュウだけがどこからともなく手に入れてくるのだという。なので、もしそれが欲しいと思ったら、トキワの森に住んでいるピカチュウを捕まえるか、彼らから譲ってもらうしかない。しかし、トキワの森のピカチュウすべてが玉を持っているわけもなく、むしろ確率は五パーセントほどである。しかもピカチュウ自体の生息率も低いときているので、手に入れるのは大変なのだという。彼が森にテントを持ち込んでいるのは、しばらくここで粘るためだろう。
 グリーンは脱力したと同時に、再びふつふつと怒りがわいてきた。
「お前っ、いきなり姿を消して、なんだと思ったら電気玉のために森にだと!? ふざけんじゃねえ、オレがどんなに心配したと思ってんだ!」
 もはやなりふり構わず叫ぶと、レッドはまた嫌そうな顔をして「だって、いきなりっていったって連絡を取る方法はないじゃないか」と答えた。
「だからポケギア持てっつっただろ! あれもかなり進化して使いやすくなったんだよ! マップもついてるしな! お前、まさかまだオレの姉ちゃんからもらった紙地図使ってんじゃねえだろうな?」
「紙には書き込みができるから便利だ。あと、ポケギアは持っても使い道がない。というか」
「というか?」
「使い方も分からない」
 三年間も山にこもっていれば、世間知らずにもなる。そういえば三年前は、ポケギアはまだ一部の大人しか持っていないもので、しかも今よりだいぶ形も大きく重かった。今ではかなりコンパクトになり、大人から子供までほとんど持っていない人はいないくらいになっているけれども。
「教えてやるよ」
 ガシガシと髪を掻きながらはぁとため息をつくと、レッドは意外そうな顔をした。
「んだよ」
「グリーンが優しいとか、気味が悪い」
「てめえ、オレの好意をなんだと思ってやがる」