アリスが一番好きなのは誰か?
彼女の目はうっとりとペーターを見ている。妙だ。今一度顔を寄せてみた。ゆっくりと息が掛かるくらい近づいても、いつもの拒否反応が見られない。そのまま飲み込まれそうな雰囲気に、理性を振り絞りベッドから離れる。このままでは襲ってしまいそうで、自分が怖い。白い手袋をした手が親指を強く握り込む。もう片方の手で鼻と口を覆った。多分、女王が使ったのは眠り薬ではない。ではこの場合考えられるのは、
―― 媚薬!?
咄嗟に閃いた。確証も何も無いが、あの女王ならやりかねない。ひょっとすると自分にだって盛られている可能性がある。
先刻メイドが自分の執務室へ運んできた、頼んだ覚えの無い紅茶。その中に入っていた可能性も非常に高い。
勿論、常日頃から口にする物には気をつけている。運んできたメイドは、新しい紅茶の試飲と言っていた。それは今日の茶会で振舞われる物で、一口飲んで特に違和感はなかった。だが、媚薬など今まで縁も無く、どんな種類があるのか、薬の効果も効力も判らない。自分の身体がどんな反応をするのかすら、全く見当も付かなかった。身体が熱いと感じる。気のせいか?
今はこの部屋を出るのが最善と判断した。
「ペーター」
後ろからの声にビクッと身体が反応する。今は、いつものように愛を囁き抱きつくなど考えられない。理性など簡単に吹き飛ぶだろう。
客室の扉に向かいゆっくりと一歩踏み出す。二歩、三歩と段々大股で足早にアリスから遠ざかる。
彼女の意思を無理やりに捻じ曲げてまでこの手に入れるのは自身のプライドが許さない。そしてそれ以上に、自分の彼女への想いが穢されると思った。
扉のハンドルを回転させるが、途中で止まり扉は開かない。
(閉じ込められたのか。女王、貴女は何処まで卑劣なんですか!)
ペーターの手が拳を握り、くそっと言いながらドアを叩いた。所詮自分も彼女の手駒の一つでしかない。
★ ペーターの目は何故赤い? ★
部屋の中をうろうろしたり、ソファに座ってみたり、全く以って落ち着かない。窓から見える空はまだ茜色だ。結構時間が過ぎたと思っても、一時間帯すら経っていないらしい。
アリスは眠っているのかベッドから出てこない。
(媚薬とはこんなに長く眠るものか?)
ふと疑問に思う。ペーターの中での『媚薬』の知識と言えば、一般的な催淫効果くらいしか知らない。当然興奮したりするのかと思っていた。だが、アリスは眠っている。もう随分と長く。
そっと彼女の様子を見にベッドへ近づいた。
足元の方から様子を伺うペーターの目に、脱ぎ散らかされた服が映る。少し視線を上げると、半分うつ伏せで背中を見せて寝ているアリスが見えた。
「ねえ、ペーター。こっちに来て・・」
ゆっくりと起き上がりながら腕を伸ばしてくる。長い髪がスルスルと肌を滑り落ち、胸も露わになる。もう駄目だ、これ以上は耐え切れない。ペーターはアリスの手を取ると、ベッドの上に膝を突き抱き寄せた。彼女は首に腕を巻きつけ顔を近づけてくる。ベッドの上に彼女を押し倒し、目を閉じてキスをした。
もうどうにでもなれという心境。非常に開放的な気分だ。それにしても、アリスの唇の感触が前に触れた時と余りにも違い過ぎると思う。そっと目を開けた。
「何してるの?」
上から響く声に顔を上げる。眩しさに視界が遮られるが、それでも声だけでアリスだと判った。
「?」
今、自分は彼女とキスをしていた筈ではとぼんやりと思い、ああ、また夢かと現実に引き戻された。もう何度目か、こんな風な夢で眠りを妨げられている。此処のところ激務で元々睡眠不足の上に、こんな質の悪い睡眠しか取れない状態ではいい加減に頭も働かなくなってきていた。現実に戻るのに時間が掛かる。
ソファに横になっていた身体を起こすと頭がフラフラつく。内容的には悪くない夢も、今このタイミングでは悪夢としか思えない。
「ねえ、どうして扉に鍵が掛かっているの?」
「陛下が、貴女を帰したくないからに決まってるじゃありませんか。困った人ですよ、本当に・・」
「ペーターが私を見張ってるってわけ?」
「まぁ、そういうことになりますね。」
こんな状況で、アリスはくすくすと楽しそうに笑っている。
ペーターが眠っている間に、久しぶりの夜の時間帯に変わっていたようだ。まだはっきりしない頭を左右に振る。
「見張りが眠ってちゃ駄目じゃない。」
「どうせ鍵が掛かっていて出られませんからね。僕は名ばかりの見張り役ですよ。」
「それじゃ、ベッドで眠ったら? 私はもう大丈夫だから。」
「流石にそれは不味いでしょう。はぁ、眠気覚ましに外でも散歩したいですね。」
「そうねぇ・・ちょっと室温高いのかしら。暑い。」
会話の途中で扉がノックされた。食事の準備が整ったと声がする。どうぞとペーターが返答すると解錠される音の後に扉が開かれた。メイドは恭しく頭を下げる。
「お庭の方に準備するようにとのことでしたので、ご案内いたします。」
絶妙なタイミングに二人は顔を見合わせ、言葉に従った。
「凄いお料理だったわね。量も盛り付けも上品で素敵。ブラッドのところも随分贅沢な食事を出すけど、宮廷料理には敵わないわ。」
「気に入っていただけたのなら嬉しいです。」
ペーターにとって食事とは、体を維持するためのものであるという認識しか持っていない。出された物を機械的に食する行為としての食事。でも今日は目の前にアリスが居て、会話をしながらの食事であった為か、いつもの無機的な食事とは別物のような気がしていた。
食事が、楽しいという肯定的な感情と共にあることを少し不思議に思う。
夕食後に二人で庭を散歩する。
今日はどちらが話題を提供しても、何故か会話は続かず途切れてしまう。少しの沈黙の後、アリスは心配事を口にした。
「ビバルディは食事に来なかったわね。私、お茶会の途中で寝ちゃったし謝りたかったんだけどな。きっと凄く怒ってるわよね。」
ペーターはどう返事をしたものか迷う。アリスを引き止めるために陛下が一服盛りましたとは流石に言えなかった。しかも力尽くで止めよと命を受けたのが自分だと、そんな事は言えない。
黙っている彼を見るアリス。何か言葉を待っているのはわかるのだが、何を如何言えばいいのか。咄嗟に出たのは、相手を気遣う風な言葉だった。
「陛下は心配するほど怒っていないと思いますよ。本当に機嫌を損ねれば斬首でしょう?それより、随分と疲れていたのではないですか? 貴女、無理していませんか?」
「うん、ちょっと無理しちゃったかも。」
いつに無く素直な返事に、ペーターは自分で聞きながら驚く。
暫く夜が来ていなかった為眠るチャンスを逸していたことと、勤務を詰めてお茶会の時間を捻出したのだと聞いたペーターは、思わず言ってしまう。
「このまま城に居てください、アリス。マフィアの仕事をさせる為に貴女をこの世界へ連れてきたわけじゃないんですよ。」
「前にも言ったでしょう、ブラッドに恩義を感じてるんだってば。だから・・」
「貴女が世話になった礼なら、僕が何倍にもして帽子屋へ返しますよ。だから、余計なことは何も考えずに僕の側で幸せでいて欲しいんです!」
作品名:アリスが一番好きなのは誰か? 作家名:沙羅紅月