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憂鬱シャルテノイド 前編

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 天気はこれでもかという程気持ちのいい快晴。雲ひとつ見当たらない真っ青な空を見上げながら、陽介はアスファルトの敷かれた道路を歩いていく。
 昼に差し掛かって少しは気温が上がっているとはいえ、吐く息は白い。おまけに、割と風があるので容赦なく冷たい空気が顔を撫でては通り過ぎていく。マフラーと耳あてをしていてもガードしきれない顔面が少し痛い気がするが、仕方ないと諦めるしかなかった。
「やっぱ手袋は持ってくるべきだったかなー…」
 さすがに、年明け頃の寒さは何処も同じだ。むしろ、ここよりもっと寒い場所なんていくらでもあるのだから、まだこれで済んだだけマシだと思わなければ。
 それでも、吹きすさぶ寒風に思わず身震いしてしまうのはどうしようもないことで。服にカイロでも貼ってくればよかったかと思いはするものの、家を出てから随分経っているのでもはや戻る気力もなかった。
 こうなったら、一秒でも早く目的地に着いてしまうのが最良の選択だ。そうすればストーブもあるし、炬燵もある。冷え切った体を温めてくれるには、これ以上ないものだ。…その前に、たぶん灯油を入れたりしないといけないかもしれないが。そこはまぁ、向こうに行ってから考えよう。
 そうと決まれば、善は急げだとばかりに陽介の足取りは早くなる。そう広くもない街だ、何度も通いなれた道は迷うはずもなく、着実に目指す場所への距離を縮めていく。
 やがて見えてきたのは、一軒の家。小さな坂を下りた先にある二階建てのそれは、言わずと知れた相棒の居候先である堂島家だ。
 もうそろそろ冬休みも終わりに差し掛かるので、良かったら宿題を一緒に片づけてしまおうと、そう言いだしたのは他ならぬこの家に住む相棒だ。
 宿題と言ってもそう多くはないが、何分年末年始はジュネスの手伝いで手一杯だった。もう頭のネジがかなり外れたんじゃないかという位のセールに福袋、おまけにイベントまで目白押しだったものだから休む暇がまるでなかったというか。目が回りそうな忙しさしかもう記憶に残っていない。
 …それでも、昨年暮れの荒れぶりを思えばまだ喜べる。
 まだ時間にして、ほんの半月前ちょっと前。この街は危うく霧に呑まれて消えてしまうところだった。消える、という表現も微妙だが結局は向こうの世界と同化してしまうのだから、そういう風に言った方が妥当だろう。
 それを象徴するかのように、日が進むにつれて深くなっていく霧に街の人々は少しずつおかしくなってゆき、行き場のない狂気を吐き出すかのように暴力事件が多発するようになった。
 病院、学校、商店街、どこに行っても物騒なことを耳にしない日はなかったと言った方が正しい。辛うじて授業が行われていた教室でさえ、生徒達の推測が入り混じったお喋りで埋め尽くされていたのだから。
 そして、その矛先が最も向かいやすかったのがジュネスだ。
 誰が出所だったか知らないが、ジュネス国がこの街に攻撃を仕掛けているんだの何だの根も葉もない噂を流した奴がいたらしく、それを信じた人達が殴りこんできたりガラスを割ったりだの結構酷いことになっていた。場合によっては臨時休業になっていたこともあったくらいだ。
 霧が晴れるのとほぼ同時にそういったことはなくなったが、暫くはまたいつ同じことが起きるのかと緊迫した空気が流れていたのは記憶に新しい。
 多分、というよりも確実に年末年始のイベントはそれらを払拭する狙いもあったと思っていいだろう。事実、それでまたジュネスも活気づき始めたわけだが。
 そんなこんなで、店長の息子としては手伝わないわけにはいかないので、元旦の三が日も仲間達との初詣以外は殆ど働きづめだったと言った方がいいくらいだ。まあ、もうテレビの中に入って戦うこともないので、そういう意味では何も気にしなくて良かったのだが。
 そんな具合にどたばたと過ぎていった時間を振りかえる間もなく、休みの最後に残されたのは宿題、という現実だった。思い出した瞬間頭が真っ白になりかけたのは、内緒にしておこう。
 夏休みと比べてそれ程多くはないものの、自分の要領の悪さ…特に勉強に関しては、もうどうしようもないとお墨付きをもらったくらいだ…から考えれば、そうそうすぐに片付きそうにない。
 どうしたものかと半ば途方に暮れていたその時、まるで見計らったかのように風斗から電話がかかってきた。
『宿題、まだなんだろ? だったらこっちに来い、分からないとこ教えてやるから』
 その一言がまさに救いの神に思えたのは、言うまでもなく。二つ返事で今日の約束を取り付けたのは昨夜のことだった。
 そんなこんなで、今に至るわけだ。肩から提げたショルダーバッグの中には、しっかりと宿題と筆記用具一式、あとは手土産にと行きがけに四六商店で買い付けた菓子がいくつか入っている。そのうちの一つは彼の従妹にあげる予定だ。
 小さな坂を下り、玄関まで辿り着く。呼び鈴を押せば、澄んだ音が響いて。後はいつものように風斗が引き戸を開けるのを待つだけだ。
 しかし、数秒経ってもその気配はまるで無く、階段を降りてくる音さえ聞こえてこない。もしかしたらまだ寝ているのかと思うが、こんな時間に起きていない方が逆に不思議だ。…まぁ、以前とんでもない寝過ごし方をしていたことがあったので、絶対とは言い切れないのだが。
 さて、どうしたものか。急用でも入ったのかと思いポケットから携帯を取り出してみるが、開いた画面にはメールのメの字も見えない。着信の痕跡もないので、連絡は入っていないようだ。
 だとしたら、本当に寝過ごしているのか。いっそ此処から電話をかけてみるべきだろうか。
 内心首を傾げていると、ふと家の中から足音が聞こえてきた。一瞬風斗かと思いかけるが、足音の小ささにすぐ別の人物が思い浮かぶ。
 数秒後、からからと小さな音を立てて開いた戸の向こうから現れたのは、予想した通りの姿だった。二つ結びの茶色い髪を小さく揺らす相手は、もう入院していた時とは違い健康そうな顔つきに戻っている。
「…あ、陽介お兄ちゃん」
 やって来たのが知った相手だと分かるや否や、その表情が満面の笑みに変わる。つられるように、陽介の顔にも笑みが浮かんだ。
「こんちは、菜々子ちゃん。お兄ちゃん、まだ寝てんのかな?」
 玄関で立ち話も難なので早々に用件を切り出すと、菜々子の表情が明らかに曇った。一瞬後ろを振り返り、どうしたらいいのか分からないといった表情をするものだからこっちは困惑せざるを得ない。何か、あったのだろうか。
「…あの、あの、ね」
「うん」
「………お兄ちゃん、起きてはいるんだけど、その…」
「起きてるけど?」
 どうやら、どう言ったらいいのかが分からないらしい。一生懸命考えながら喋っている様子からして、かなり説明しにくい事態になっているようだ。だが、何が起こっているのかはこっちには全くわからないので、菜々子の言葉を待つしかない。
「…なんか、様子がおかしいの。うまく言えないんだけど…」
「…んー、そしたら俺が直接見た方が早いかな? 中、上らせてもらっていい?」
「うん、いいよ」