憂鬱シャルテノイド 前編
どうぞ、と促されるままに玄関に入る。靴を脱いで中に上がれば、暖かい空気が体を包み込んだ。それなりに重装備でいたとはいえ、外にいた分すっかり体が冷えていたのだと思い知らされる。
視線を向けた先に、探す姿はない。居間にいなければ、部屋にいると思ってまず間違いないだろう。しかし、出迎えもなしに閉じこもっている理由がまるで分らないので、首を傾げざるを得ない。
ちょっと待ってて、と菜々子に告げ陽介は階段を上っていく。もはや何度も遊びに来ているだけあって、すっかり勝手知ったる場所だ。部屋の位置は間違えるはずもない。
曇りガラスの嵌ったドアの前まで来ると足を止め、軽くノックをする。
「仁科、いるか?」
訊ねてみるものの、返事は返らない。さっき菜々子が起きてはいると言っていたので、聞こえていないという選択肢はまず有り得ないだろう。
だとしたら、一体何がどうなっているのやら。構わず中に入ってしまうことも出来なくはないのだが、なんとなく後が怖い気がするので最終手段に取っておいた方がいいかもしれない。
「……陽介、か?」
さてどうしたものかと考えていた矢先、不意に中から声が聞こえた。聞き慣れた声を、間違えるはずもない。
「仁科? いるのか?」
「…ああ。とりあえず、今そこにいるのはお前だけか?」
「え? ああ、うん。俺だけだけど」
「……そうか。なら、入ってきてくれ」
いくらかほっとしたような声音に、更に疑問が募る。けれど、推測だけでは何も分からないのは事実だ。此処は覚悟を決めて行くしかあるまい。
ドアのノブに手をかけ、がちゃりと音を立てて開ける。すると、視界に飛び込んできたのはいつもと変わらない風景だった。たった一つを、除いて。
「…………」
そのたった一つに凄い勢いで突っ込みを入れたい衝動に駆られたが、まずはドアを閉めた方がいいだろう。自分しかいないのかと聞いてきた時点で、菜々子には見られたくないのだと察せるくらいの頭はある。
とりあえずドアを閉め、静寂の戻ってきた部屋の中で陽介は風斗に向き直る。
「…とりあえず、仁科。なんだよ、そのサングラス」
そう、まずはそこを指摘せずにはいられない。
格好はいつも通りの私服なのだが、真っ黒なサングラスがまるで合っていない。むしろ、テレビの中でかけている眼鏡よりも大きいので不格好にも程があるというか。おそらく、彼の叔父が使っているものだろう。
しかし、屋外ならともかく何故室内でサングラスをかけなければならないのか。別に日差しが眩しいからとかそんなことはないだろうし、頭のネジが外れてしまったわけでもなさそうだ。…正直後者はどうかと思うので、自分的には除外したいが。
速攻で突っ込まれるのを分かっていたのか、相手は少しばつが悪そうに苦笑いを浮かべた。
「…その、何だ。ある意味緊急事態になっているからな」
「緊急事態?」
「…まぁ、見てもらえれば分かる」
言って、風斗がサングラスを外す。途端、陽介は驚愕に目を見開いた。
そこにあったのは、一対の金色の瞳。いつも見慣れた濃灰色のそれではない。いや、問題はそういうことじゃない。もっと重要なのは。
「…シャドウ?」
自ずと口から滑り出した言葉で漸く状況を認識し、更に驚かざるを得ない。
そんな馬鹿な、此処はテレビの中じゃないはずなのに。そもそも、風斗のシャドウは今まで出てこなかったはずだ。どういう理由だかは分からないが、自分がシャドウと対峙するよりも前からペルソナを使えていたし、本人もシャドウと会ったことはないと言っていた。
なのに、今のこの状況は。正直、どうリアクションをしたらいいのか分からない。
「…すまない、驚かせたな」
「あー…いや、そこはいーんだけど……」
シャドウとはいえ、言動や素振りは風斗のままだ。むしろ、風斗がもう一人増えたと思った方が正しいんじゃないかとさえ思う。
しかし、此処にいるのはシャドウ一人だけだ。だとしたら、本物の風斗は何処にいるのだろう?
いくつもの疑問が同時に頭の中を駆け巡るものだから、気分はテンタラフーを食らった状態に等しい。とはいえ、此処で混乱している場合ではないので、まずは状況を見極めることにしよう。でなければ、特捜隊の参謀を名乗っていた意味がない。
「……えーっと、とりあえず確認てことで。お前は、仁科のシャドウだよな?」
「間違いない」
否定するはずもなく、はっきりと頷かれる。むしろ、ここで違うと言われても困るのでこれでいいわけだが。
「そんで、此処にいるのはお前一人ってわけ?」
「そうなるな」
「…仁科本人は何処いったんだよ」
「………それが分からない」
「はぁ?」
思わぬ回答に、頓狂な声を上げざるを得ない。だが、シャドウの表情は至って真剣そのもので、なんだか詰め寄るのも躊躇われるのは何故なのか。
「…正直なところ、気がついたら此処にいた、と言った方が正しいのかもしれない。てっきりあっちの世界なのかと思ったが、菜々子はいるしお前は来るしで現実としか思えんしな。…だが……どれだけ探ってみても本体の気配がどこにもない」
「…なんだよ、それ」
言っている意味が、うまく掴めない。シャドウが今此処にいるとして、その上で風斗の気配がないということは、まさか。
嫌な予感が、する。何か、とんでもないことがこの先に待っていそうな気がして。胸の内に、冷たいものが流れ込んでくる。随分前にマヨナカテレビを初めて見た時と、同じ感覚。
「…一つだけ先に言っておくが、『あいつ』が死んだとかそういうわけではないぞ。もし仮にそうだったとしたら、まず俺は此処にこうして立っているはずもないからな」
「……死んでないなら、何処にいるんだよ」
シャドウ本人にすら分からないのに、自分に風斗の居場所の見当なんてつくはずもない。だったら、お手上げ以外の何でもないではないか。かと言って、このまま探さずにいられるはずもない。
「…心当たりが、ないわけじゃない」
そう言って、シャドウは視線を右にずらす。追いかけてみると、そこにあるのはそう大きくもないテレビ。夜はバイトや読書ばかりしているから、マヨナカテレビを見る時以外は殆ど使うことがないと苦笑いを零していたような。
……いや、問題はそこじゃない。此処でテレビを見るということは、まさか。
「…あっちに、いるのか?」
「おそらく、そうだろうな」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ! 足立はもう捕まったはずだし、アメノナントカってやつもいなくなったんだろ! そいつら以外にも、まだ何かいるってのかよ!?」
確かに、あの世界は不可解な点が多すぎるし、解明されていない謎もそれなりにある。そこから考えれば、去年の暮れに戦った足立とその黒幕以外に何か得体の知れない存在がいたっておかしくはなかった。
それでもだ。もうこれ以上事件と関わりのありそうな人物……黒幕が人外だったので、正直こう言っていいのかどうかは分からないが……は思い当たらないのに、どうしてこんなことになってしまうのか。まず風斗を向こう側に引きずり込む理由からして、分からない。
そんな陽介の思考を既に察知していたのか、シャドウは神妙な面持ちを崩さないまま口を開く。
作品名:憂鬱シャルテノイド 前編 作家名:るりにょ