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憂鬱シャルテノイド 後編

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 どうしたらいいのだろう。風斗の頭の中は、その言葉一つに支配されていた。
 此処から出ようと、そう言ってくれた少年。いつもと変わらない日常を過ごしていたはずなのに、連れられるままに外へと出てみれば異様な光景が広がっていて。何が何だか分からなかったが、どうにかして現実に戻らなければならないことだけは分かっていた。
 だが、今目の前で繰り広げられているのは紛れもなく最悪の状況だ。何処から現れたのか分からない化け物に、自分の相棒と称した少年が殺されかけている。しかも、どれだけ足掻いても絡みついた蔦のようなものは取れない。
 苦しそうに顔を歪めている少年の顔から、少しずつ生気が消えていく。同時に濃くなり始める死の色に焦燥が募ると共に、奇妙な感覚が胸の内に生じていた。
 たとえ知らない相手でも、目の前で死んでしまうかもしれない状況に経たされれば焦るのは当然だ。けれど、どうしてだか今は何かが違う。
 覚えていないはずなのに。なのに、彼が死んでしまうことに言い様のない恐怖を感じるのは何故なのか。そこだけが、抜け落ちたパズルのピースのように繋がらない。
 一体、何が、抜けて。
『おやおや、まだ思い出さないのかい?』
 唐突に、背後から声が聞こえてくる。主を探して振り返れば、すぐ傍らに女性が一人佇んでいた。白い服に、灰色のウェーブがかかった髪。考えるまでもなく、さっき見た人影そのものだった。
 そんな馬鹿な、距離はそれなりに離れていたはずなのに、いつの間に近くまで来ていたのか。驚愕を隠せない自分を余所に、女性は呆れ顔で再び口を開く。
『眠らせてある記憶はほんの一部とはいえ、そんなに強い戒めをつけたつもりはないのだがね』
 何を言っているのか、よく分からない。
 眠らされている記憶とは、何を意味しているのか。もしかしなくても、あの少年に関係があるのではないか。それ以前に、どうしてその記憶だけ眠らされなければならないのか。
 目まぐるしく回る思考とは裏腹に、女性はにこやかに微笑む。まるでこの状況を楽しむかのように。
『ほら、早くしないとその子が死ぬだろう? …それとも、これしきのことにも抗えない程情けない奴だったのかな、私の愛しい者は』
 死、という言葉に弾かれるように向き直れば、膝をついていたはずの少年がいつの間にか倒れている。まだ辛うじて開いていたはずの目も閉じられていて、顔に生気は全くない。このままでは、本当に、死んで、しまう。
「……よう、す、け…?」
 自ずと口を突いて出た言葉に、自分でも驚く。ぱりん、と頭の中で硝子が割れるような音がしたのは、その瞬間だった。
 抜け落ちていたピースが、急速に埋められていく。八十稲羽で過ごした日々、いくつもの推測に翻弄されながらもどうにか解決できた殺人事件、その過程で得た掛け替えのない仲間達。
 そして、何よりも大切にしたいと思った、大事な人の、名前。
「……陽介ぇっ!」
 迸った叫びに応じるかのように、六枚羽の天使のペルソナが姿を現した。ばさり、と幾つもの羽音が響き渡ると共に、白い光が自分を中心に収束し、そして爆発した。
 ほんの一瞬白で埋め尽くされた世界は、一秒後にはまた元の漆黒の色彩を取り戻している。だが、確実に違ったのは陽介に絡みついていたシャドウが消滅していたことだった。
 一か八かの賭けのようなものだったが、うまくいってよかった。ほっと胸を撫で下ろすものの、まだ安心していい状況ではない。
 倒れている陽介を抱き起こし、左胸へと掌を当てた。触れあった箇所から淡い光が溢れ出し、癒しの力を注ぎ込んでいく。まだ大丈夫だとは思うが、それでも回復は早い方がいい。
 少しずつ顔色が戻っていくのを見守っていた最中、ふと手を叩く音が聞こえてきた。まさかと思いながらも視線を上げれば、女性が一人手を叩いて…否、拍手をしていると言った方が正しいだろう。
『よくやった。一時はどうなることかと思ったけど、土壇場でちゃんと記憶を取り戻したみたいだね』
 何故そこで褒められなければならないのか、まるで分らない。しかも、口ぶりからしてかなり上から目線の物言いに聞こえなくもないのだが。
 …もしかしなくても、この女性が全ての元凶じゃないだろうか。こういう時の直感は、大体当たるのだから。
『…ああ、安心していい。死なせるつもりは微塵もなかったからね。すぐに目を覚ますはずだ』
「…一体、何がしたいんだ。お前は」
 脳裏によぎるのは、意識が落ちる前の記憶。今なら分かる、あの時話しかけてきていた声は間違いなく彼女のものだ。
 少し退屈だった。そんな理由でこんなことをするというのなら、許せない。巻き込まれた自分達はとんだ迷惑を被ったのだから。
『何が、か……まあ、答えは単純だな』
 言って、女性は鮮やかな笑顔を浮かべる。いっそ、憎らしい程に。
『お前達と少し遊びたかった、それではいけないか?』
「…俺達『と』じゃなくて、俺達『で』じゃないのか?」
『おや、なかなかどうして鋭い指摘だね。…否定はしないが』
 そう睨まないでくれないか、と付け足して女性は続ける。
『まあ、退屈凌ぎだというのが一番近い理由だろうな。…心配せずとも、お前達はちゃんと帰してやるさ。私の遊びに付き合ってくれた礼も、ちゃんと添えてな』
 ぷつりと、何かが切れた音がした。
 腕の中の陽介を一瞥し、顔色がすっかり戻ったことを確認すると、風斗はそっと彼の体を横たえる。そうして立ち上がると、険しい表情のまま女性に向き直った。何事かと小さく首を傾げる相手には構わず、右手を振り上げる。
 次の瞬間、乾いた音が響いた。何が起こったのか理解していないと思しき女性は、呆然としたまま此方を見つめている。片方だけ赤く色づいた頬が、何よりの証拠だというのに。
「ふざけるな」
 煮えくり返りそうな思いをどうにか押し留めながら、風斗は言葉を紡ぐ。
「何が遊びだ、そんな下らない理由で俺達を巻きこむな」
 死なすつもりはないにしても、危うくその間際まで行きかけたのだ。それを遊びの一言で済ませられたら堪ったものじゃない。たとえ被害を受けたのが自分でなかったとしても、同じことを考えるだろう。
 彼女が何者なのか、何の目的があってこんなことをしたのか、自分には殆ど分からない。それでも、こんな答えは許せるはずがない。自分の大切な人が巻き込まれたのだとすれば、尚更。
 答えが返らぬまま暫く沈黙が落ちるばかりだったが、不意に女性が肩を震わせながらくつくつと笑い始めた。俯いたままの表情を、窺い知ることは出来ない。
『…なるほど。私をはたくとは、なかなかやってくれるじゃないか』
 ぽつりと紡がれた声は低く、さっきまで聞こえていたそれとは明らかに違う。何か、とてつもなく恐ろしいものを引きずりだしてしまったかのような、得体の知れない感覚が胸の内を引っ掻いた。
『ちょっとした悪戯のつもりだったが、まさかこんなことになるとはね。…ますます気に入ったよ。それでこそ、私の愛しいイザナギだ』
「…イザナギ?」
 聞き覚えのある言葉に、一瞬戸惑う。記憶に間違いがなければ、それは自分が最初に覚醒したペルソナの名前だ。それが、どうして今此処で出てくるのか。