また出会えたその時は、
蒸してきた空気に苛立ちを覚えながら学校へ向かっていると、後ろから日向くんに声を掛けられた。
朝っぱらから元気でこれまた暑苦しい。頭は青くて涼しげに見えなくもないのに、少し長めの襟足のせいで暑苦しく見える。
「って…なんだよその顔」
「朝から日向くんに会えて嬉しいわ…って顔に見えるかしら?」
見向きもせず足も止めずに歩き続ける。
半歩前に出てきた日向くんが首を横に振った様子が視界の端に映る。
「そういうことよ」
「うぇぇ!?それ、さすがにひどくねぇ!?顔も見たくねーってこと!?」
そこまでは思ってないが、面白いから放っておく。
ゆりっぺひでぇよぉと泣き真似をする日向くんがちょっとかわいく見えて思わず頬が緩む。
“日向くんのこと好きなんでしょ?”
突如ひとみの声が聞こえてあたりを見渡すけれど勿論そこにひとみはいない。急に火照り始めた頬に慌てて、ひとみのセリフを追い払う。
「あーもーうっさいわね。今日の数学の宿題はやってきたんでしょうね!?」
「へっ?宿題なんてあったっけ??」
思わず盛大なため息をついてしまった。こんなんでよくこの高校に入れたなと本気で思う。
「よー日向、仲村さん、おはよーさん」
「日向おはよー、仲村さんもおはよ!」
「おっす」
「おはよう」
日向くんの友達が、軽く挨拶だけして追い越していく。やけに楽しそうな様子が少し気にかかった。
離れる理由もないので、そのまま2人で教室まで一緒に行くと、教室に入った途端に歓声が上がった。
「ひゅーひゅー!朝からお熱いねぇ~」
「最近暑いのお前らのせいじゃねーの?」
「朝っぱらから見せつけんなよ~」
彼らの言葉の意味が、さっぱりわからなかった。それは日向くんも同じだったらしい。お互いクエスチョンマークを浮かべながら顔を見合わせ無言の会話を交わす。何言ってんのこいつら。さぁ?さっぱりわかんねぇ。
その様子に更に教室内がざわつく。
「ちょっとゆり!どういうことなの!?ゆりと日向くんが付き合ってるって噂になってるんだけど!?」
先に来ていたひとみが近寄ってきて突然そんなことを言い放った。瞬間、
「はぁ!?」
日向くんとあたしの声が重なった。
あたしには日向くんと付き合い始めた覚えなんて全くない。日向くんにも勿論ない。だってそんな事実どこにもない。
「ちょっ、なによそれ!?付き合ってなんかないわよ!」
「ったく、どこをどう見たらそうなんだよ。ありえねぇだろ。ゆりっぺだぜ!?」
「ちょっと!ありえないとはなによ!」
それが余計に野郎どもを煽ることなど容易に想像できたであろうに、日向くんの言い草に思わず突っかかってしまった。しまったと思った時にはもう遅い、痴話喧嘩だの夫婦喧嘩だの、好き放題言われてしまっていた。
あたしは頬がまた火照り始めていることを自覚していた。今そんな顔をしたら余計にからかわれてしまうとわかっているのに――。
どうすれば治まってくれるのかわからず、顔を皆の視線から逸らすことで隠そうとする。
「まーったく、お前ら暇だな~?おっ、そうだ、暇なら数学の宿題手伝え」
場にそぐわない日向くんののんびりした口調に、一瞬静かになった後、教室内の雰囲気が一変した。
各所で笑いが起き、さっきまで調子に乗ってからかっていた男子たちも、「また忘れたのかよ」「お前いい加減にしろよなー」などと言いながら、自分の席に向かう日向くんの後を追って行ってしまった。
一声で事態を変えてしまった日向くんにびっくりしていると、ひとみが袖を引っ張ってきて、耳打ちする。
「よかったね。日向くん、ゆりを助けてくれたんだね」
助けた…。そもそも2人でからかわれていたのだから、あたしを助けた、とは言えないんじゃないかとも思ったが、助かったのは事実だ。
なんとなく日向くんに助けられたことに悔しさを覚えながら、あたしはひとみと自分の席へ向かった。
もうあたしたちのことを口にする人はいなかった。人の噂なんてそんなもんか…。
そもそも本気でそう思っていたわけではないんだろう。
「ボス猿さえ大人しくなればこんなもんよ。悪ノリだけはいいんだから、まったく」
他のクラスメイトに聞かれないように極力小声で会話をする。
「でもさ、ゆり、急いだほうがいいかもね」
「何を?」
急がなきゃいけない用事があっただろうか?皆目見当がつかない。
ひとみは更に距離を縮めて、手のひらで壁を作りながら耳元で話す。
「告白よ、こーくーはーくっ!」
「はぁ!?」
思わぬ言葉につい声が大きくなってしまい、クラスメイトの視線が集まる。視線に引きつった笑顔で返し、皆の視線が散ったことを確認してから、内緒話を再開する。
「彼、なんだかんだ人気があるからね。今まではゆりと付き合ってるかもって噂があったから皆静かにしてたけど、今ので公言しちゃったから…。ゆりが少しでも気になってるなら、急いだほうがいいと思うよ」
誰かに告白されたら――日向くんは受け入れるんだろうか。
そうしたら、また、言えなくなってしまう。過去の後悔を繰り返してしまう。
ああ、そうだ。彼はあの子と約束をしているんだ。結婚の約束を。結婚なんてまだ先の話だろうし、そもそも再会できるかもわからない。だから今誰かと付き合ったって後にあの子と結婚することも――。
って…あたしは何を考えているんだろう。
「あたしは別に…」
言葉が続かず、開いた口をそのまま閉じる。日向くんに彼女ができたら嫌だと一瞬でも思ってしまった。あの子と再会しなければいいのに、なんて思ってしまった。
それはつまりそういうこと…なんだろうか。
でもそれが、今のあたしの気持ちなのか、それともあの世界のあたしの気持ちなのかがわからない。
「ねぇ、ゆり。素直になりなよ」
というひとみの助言に曖昧に返事をした。
考え事をしたいときは、つい屋上に足が向かってしまう。
考えるのは日向くんのこと、自分の気持ち…。
過去の自分は過去の自分、今の自分は今の自分。それは今でもそう思っているし、撤回するつもりはない。でもだからこそ、今抱えているこの悩みとの矛盾が苦しい。
過去の自分の想いは、今の自分の想いとは関係ない…果たしてそう言えるだろうか。
この、日向くんへの想いは過去のあたしの想いじゃないと、言えるだろうか。
「はぁ…」
ひとつ、ため息をついて重い扉を開けると、入学式の日と同じように、そこには見慣れた背中があった。
あたしはあの後も度々ここへ来ていたが、日向くんと鉢合わせたのはあの日以来だ。普段ほとんどの放課後をグラウンドで過ごす日向くんがここへ来ることはほとんどない。
「よぉゆりっぺ、お前も来たんだな」
あたしは無言で日向くんの隣へ行き、同様に柵に身を任せる。
日向くんはなにも喋らない。
あたしもなにも喋らない。
でもこの空間があの頃嫌いじゃなかったし、今も嫌いじゃない。
お互いの弱さのせいか、他人にあまり興味がないからなのか、お互い干渉しようとはしない。けれど居ることは拒まない。そのバランスが心地よかった。
この、付かず離れずの距離を、縮めることはできるのだろうか。1歩近づいたらどうなるのだろうか。バランスが崩れて居心地は悪くなるのだろうか。日向くんに触れたら―――
「俺、さ」
作品名:また出会えたその時は、 作家名:涼風 あおい