君振リ見テ我ナニスル
その証拠に小平太は泣きそうな表情になり、滝夜叉丸の手を乱暴に振り解いた。
しかし、次に起こした行動は長次の予想に反していた。
乾いた音が闇夜に響き渡った。
目を剥いた長次は今目の前で起こった出来事が信じられなかった。
滝夜叉丸は叩かれた格好のまま呆然としており、小平太は平手で頬を打ったその手を硬く握り締めた。
そう。小平太が滝夜叉丸の頬を平手打ちをしたのだ。
「そうか。私はそんなにも信用が無かったのか」
怒声ではなく、震えた、寂しげな声で呟くと小平太は塹壕から出、そのまま駆け出して行ってしまった。
動こうとしない滝夜叉丸を見た長次は一瞬躊躇し、しかし、己も塹壕から出ると小平太の背を追った。
誰も居なくなった塹壕の中。滝夜叉丸は一人ゆっくりとじんわりと痛みを帯びてきた頬に触れた。手首の痛みと合わせた二つの痛み。それが何を意味しているか、理解した時滝夜叉丸は覚束ない足取りで後退り、そしてすぐに土の壁にぶつかり、そのまま崩れ落ちるように座り込んでしまう。
ああ、そうだ。
終わりが来たのだ。
道が交わることもなく、それぞれの道の上で終わりが来たのだ。
「っ! ……ふっ……くぅっ、うわぁぁぁぁっ!」
滝夜叉丸の泣き声は悲しく辺りを包んだ。
そこから少し離れた場所に二つの影があった。
「遅かったみたいですね」
一人は淡々と、しかし、何処か憂慮を含んだ声で。
「……滝夜叉丸君もあんな風に泣くんだね」
一人は今にも泣きそうなか細い声で。
「どうします? 慰めますか?」
喜八郎は右隣に居る人物を見上げながら問う。力無く首を振ったのはタカ丸だ。
「まだ……まだ様子を見てみよう。きっと大丈夫だから。それに、」
「それに?」
「これは滝夜叉丸君の問題だよ。きっと今彼も僕らの手は求めていない」
「……そう、でしょうか」
「うん。君も分かってる筈だよ」
「私は分かりません」
そう言い切った喜八郎の目に迷いがあるのをタカ丸は見逃さなかった。
「本当に君達は良い友達だね」
「いや、意味が分からないです」
「お互いに成長させているんだな、ってね」
「少なくとも彼を見て分かる事は人から嫌われる方法ぐらいですけどね」
「言うねー」
そうやって駄目な所をハッキリと告げる事がどれだけの信頼関係を築かなければ出来ない事なのか彼は分かっているだろうか。いや、恐らくは分かっていないのだろう。まだ、今は。
滝夜叉丸の嗚咽と泣き声が響く中、タカ丸はゆっくりと顔を上げ、今夜の月の光がどうぞ彼らにも届きますように、と。彼らの道筋を照らしてくれますように、と願うのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
どれだけの時間過ごしたのだろうか。
滝夜叉丸は泣きすぎて枯れ始めた声と喉、そして熱を帯び始めた頬に漸く平静さを取り戻そうとしていた。
不意に視線をやり、己の姿に呆れた。
地面に直接座り、動いた所為で白かった寝間着は土で汚れきっており、折角風呂に入ったというのに身体も土まみれだ。その上、あれだけ泣いたのだ。きっと顔は目も当てられない現状になっているに違いない。それに、と思った所で滝夜叉丸は再び溢れそうになった涙を乱暴に擦り拭った。
早く目も頬も冷やさなければ明日はまともに外に出歩けそうにない。しかし、今の自分はまだ行動を起こせるほど気力がない。
目の前に広がるのは土の壁だけ。まるで、己の行く末を暗示しているかのような暗い色に渇いた笑い声が漏れる。
何処で間違えたのだろうか。
あの日小平太の告白を受け止めたのがいけなかったのだろうか。
それとも、二年前自分が恋に落ちたのがいけなかったのだろうか。
いや、そもそも体育委員会に入ったのがいけなかったのかもしれない。
その全てが無ければ今のこの身を引き裂かれたような痛みを感じる事は無かったのだ。
始まりが無ければ終わりも無いのだ。
だけど、きっと。
掴んだ一握りの土を目の前の壁に投げつける。
「そうだ! きっと、きっとどれを選ぶ事が無かったとしても意味が無いんだ! あの人を好きになったからこそ今の私がいるんだ! 私は私を否定はしない! 決して! 私が自身を否定してしまえば、しまえば……」
阿鼻叫喚する滝夜叉丸は言葉を詰まらせる。しかし、自棄になってしまえば心情の吐露など容易いものだ。
再び土を握り締め、大きく息を吸うと涙声で叫んだ。再び土が舞う。
「私が否定してしまえば私自身を誰も認めてなどくれない!」
ずっと感じていた事だ。
どれだけ人と戯れていようが、どれだけ人に疎まれようが、滝夜叉丸はそれでも良かったのだ。自分を認めてくれなくてもいい。見てくれさえすれば。嫌いでもいい。自分を知っていてくれれば。
そうすれば自分は決して一人ではない。誰かと繋がっているのだ。嫌いな奴、という部類に入っているだけで、それはその人と滝夜叉丸が繋がっている証拠になるのだ。これは自身が小平太を嫌いだった時期に気付いた事だ。どれだけ嫌いでも忘れる事は出来ない。視界に入れば嫌悪でもその人の事を意識してしまうのだ。ならば、己もそれでいいのではないか、滝夜叉丸はそう考えたのだ。
自身を認めているのは自身だけで構わない。
しかし、もしも自分自身が否定してしまえば途端に滝夜叉丸の土台は崩れ落ちていってしまう。今まで努力した過程も、残した成果も、全てが。
滝夜叉丸自身はとても脆い物で出来上がっている。二年前はただ必死だっただけだ。だが、歳を重ねた今の自分は違う。
人に疎まれようと崩れない土台は自分自身と、そしてたった一人の愛しい人の指一つで簡単に壊れてしまう。
こんな自分はきっと小平太の望んだ『平滝夜叉丸』ではない。
何度も何度も土を掴んでは投げつける。そんな行為を繰り返している滝夜叉丸の手は汚れ、爪にまで土が入り込んでいる。
「私は、私は! 弱い! 弱いんだ! どれだけ優秀だろうが、どれだけ自信があろうが私は……!」
語尾は涙に呑まれ、言う事が出来なかった。投げつける事の出来なかった土を握り締めたまま、滝夜叉丸は地面を殴りつけた。
「お前はそんなに弱いのか?」
突如頭上から聞こえた声に滝夜叉丸は身体を起こし、見上げた。
月を背にした小平太は塹壕の淵に屈んで、滝夜叉丸を見下ろしていた。逆光の所為でその表情までは見えない。
「せ、んぱ、い……」
掠れた声で呼べば「何だ?」と答えてくれる。
「どう、して……」
小さな掛け声と共に塹壕の中に飛び降りた小平太は今度こそ滝夜叉丸の前に座り込み、その表情を露にした。先程までの険しい表情はそこにはない。気まずそうな、これも小平太にしては珍しい表情だった。
「どうして、戻ってきて……」
「すっかり声が枯れてしまっているな」
滝夜叉丸の問いには答えず、その容貌と声から先程までの彼の様子を想像したのだろう、哀れんだ表情になる。そんな顔を見ていられなくて滝夜叉丸は顔を逸らす。
「……ご心配されなくても委員会には出ます。ちゃんと己の仕事はします」
作品名:君振リ見テ我ナニスル 作家名:まろにー