月と吸血鬼と
数年前、俺は育った村を出て、人間たちの生活に混じるようになった。
正直言うとなめていた。
俺が育った村は始祖と呼ばれる吸血鬼の長が張った特殊な結界で守られていて、人間には村の存在が認識できず、吸血鬼の飢えが抑えられるようになっている。
よくわからないが謎の支援者が外にいるらしく、電気も通っているし、水道も使える。
昼に寝ては夜に起き、趣味で野菜や果物を育てて、必要はないが料理に目覚めている吸血鬼もいる。
たまに人間が迷い込んだときは、ごちそうが歩いてやってきたとばかりに食べられちゃったりするが、基本まったりとしたスローライフだ。
俺が外に出たのはそのごはんになってしまった人間が持ってきた物がきっかけだった。
秘境探検をしていたというその人間は、カメラや携帯、ノートパソコン、など数々の文明の利器を持ち込み、その中に携帯ゲーム機があった。
なんて面白いものがあるのだろう。そのゲームに夢中になった俺は充電が切れたと同時に村から出て外で暮らしてみたくなった。
村の長でもあり、育ての親にあたる祖父はのんびりと縁側で「みやげは羊羹がいい」と言って、快く送り出してくれた。今は隠居している祖父ももともとは外でふらついていた吸血鬼であったらしい。
一緒に行きたいという言う友人もいたのだけれど、長く外で暮らしていた経験のある祖父の友人が「ひとりなら特異体質になるけど、複数だと異質になる」と言うことで止めていた。
そうして俺はときどき手紙を書いたり、羊羹を送ったりすることを約束して、人間モドキ生活を始めた。
特殊能力である暗示を駆使して、日中に日が当たらない最高の部屋と夜型生物を寛大に受け止めるバイト先のコンビニを見つけ、人工の光に照らされながら仕事をこなしていた俺に初めての恐怖はやってきた。
彼は客としてコンビニにやってきた。
毎日夜にやってきてはコンビニ弁当。そして週に一度の割合でリップクリームを買っていった。
そこらの女性よりふくよかで艶のある美しい口唇を持つ彼をバイト店員同士で「リップ君」と呼んでいた。
俺はというと、彼が必ず俺のレジを使っているときに寄ってくることや、釣り銭を渡すときに手をさわさわっと触るのも、特になんの意味も考えずにのんきに仕事をしていた。
バイトが終わって店から出ると三日に一度は彼がおどおどした声で俺に「こんばんは」と挨拶をしてきていたのだけれど、そのときも偶然だと思ったのだ。
そしてある日おなかが空いていた俺は待ち伏せしていた彼に後ろから食いついた。栄養が偏ったコンビニ弁当の味はしたが特に問題なし。
ぶっ倒れた彼を放っておくことも考えたが、今後もときどきごはんにしようと思って、俺は急に倒れた彼を心配している振りをして「大丈夫ですか、お客さん」と声をかけた。
目が覚めた彼の第一声。
「天使……」
よだれでもこぼしそうなにやけ顔で彼は言った。
それからというものはひどかった。
出勤、退勤、すべて俺の夜生活に合わせてくる。自宅の窓から外を覗くと双眼鏡を持った彼と目が合うし、カーテンを開けるとカメラのシャッター音が聞こえてくる。
日光を浴びないとビタミンがどうたらと訴えてもみたが、彼はコンビニで買ったサプリメントを見せてきた。コンビニなんでも売りすぎ。
勢い余って「俺、吸血鬼なんです!」と告白したこともある。
証拠に口をおおきく開いて「見て見てキバキバ」と見せたのだけれど、彼は「そうですか。やっぱり」とへらりと笑った。しかも「ぜひ僕の血を吸ってください」と順応までしてきた。
聞いてもいないのに俺への愛を証明するため、彼は俺の部屋から出るゴミを漁っていたことを告白し、飲食物のたぐいのゴミがないことを不思議に思っていたらしい。
最近の人間は順応力高すぎです。ファンタジーとホラーを受け入れすぎです。人間はマイノリティを排除するものじゃなかったのですか。
最悪だったのは、彼は俺が吸血鬼であるということを正しく理解し、それを利用してきたということだ。
つまり昼間の俺はか弱い仔羊であるということだ。
襲ってくる睡魔に耐えきれず、眠りこけていたところにリップ君はやってきた。
侵入者の気配には気づいたものの身体が動かせない俺は手錠で拘束され、猿ぐつわをされた。
リップ君のリュックから次から次へと出てくる皮の拘束具や大人のオモチャ、よくわからない金属の器具が目の前で並んでいくのはつらかった。
未遂で済んだのは彼が撮影マニアだったからだ。彼はまず動けない俺の服を脱がし、着替えさせ、たいそう恥ずかしい写真や動画を撮りまくった。あまりに夢中になりすぎて、そいつは夜が近づいてきたことに気づかなかった。
日が落ちてしまえば、そこからは俺たち夜の生き物の本領発揮。手足の手錠を引きちぎり、そいつの持っていたカメラを素手で握りつぶしてやると、根が臆病者なのか、俺の人並み外れた握力に悲鳴を上げ、股間を膨らませたまま部屋から飛び出ていった。そして階段ですっ転んで全治一ヶ月の入院。
その後はというと「おまわりさん、あのひとレイプ犯なんです。逮捕してください」なんて戸籍も持ってないむしろ傷害事件の常習犯な俺は訴えることもできず、逃げるように引っ越ししたというわけだ。
人間こわい。
バイトが終わり、例の箱を抱えて俺は自宅に戻った。
ただいま午前四時。朝日が昇る前にこの問題について考えておかなければ。冬は太陽が昇るのが遅くて良かった。
一番問題なのはこの血の量だ。
ワインボトルに詰められた血液。命を奪うほどではないけれど、人間がこれを手に入れることは簡単とは思えない。
頭の中に俺のストーカーに襲われ、血を抜き取られ放置された女の子のイメージが浮かび上がる。その子が生きていても死んでいても、このワインボトルは俺が警察に疑われるには充分だろう。
仮に警察の疑いが俺ではなくストーカーのリップ君に向かっていても彼は堂々と警察にこう言うだろう。
『恋人へのプレゼントです』
とろけそうな顔であの変態が説明するのが目に見える。
そんなものを欲しがる恋人とは何者だと警察は思うだろう。
結論、俺ピンチ。
しかしリップ君がどうやって新しい住所を知ったのかは知らないけれど、バイト先まで来ておきながら俺の前に姿をあらわさないのは変だ。以前は堂々と帰り道をつけてきていたというのに。
こそこそ隠れてしまわれると見つけるのは難しい。俺には太陽という弱点があるし、人間より感覚は優れていてもリップ君の他に三人のストーカーがいるのだ。ネットカフェで見ているときならともかく、外に出たら俺をなめまわすような視線なんてどれがどれなのかもわからない。まさか街中で疑わしい視線の相手を捕まえるなんてわけにもいかない。大声でも出されて警察が来たら、俺のほうがやばい。
うーん、とベッドの上で考え込んでも時間は経つばかりで解決法が見つからない。
眠い。日が昇る。変態はこわいけど眠い。
俺はベッドにぱったり倒れ込んでしまった。人間はストレスで不眠症になったりするというけれど、俺たちは生態的にどうあがいても眠る。