月と吸血鬼と
思考もだんだんと鈍くなり「もうあっちから接触してくるまで待とう。そのあとボコボコにしよう。こっそりと」という結論になった。
来ない。
魅惑の血液ボトルの贈り物から三日。リップ君からの接触はなかった。
真夜中のネットカフェからは俺をブースの扉の隙間からじっとり見つめる視線のみ。若干からみつく視線がいつもより濃いような気もしないでもないが、俺の恐怖心からきたものかもしれない。
対策として昼間はきっちりと鍵とチェーンをかけ、窓を閉めて眠りついているが安眠にはほど遠い。
前に住んでいたところに比べれば、今のマンションはオートロックだし、鍵もピッキングがしにくいディンプルキーだ。それでも安心できないのはやはり自分が昼間は完全に無防備だからだ。
いいよな人間は。二十四時間フル稼働できて。と思わず妬みを心の中で呟く。
「ツナ君、顔色悪いけど大丈夫?」
「え?」
カウンターでポイントカードを整理していると店長が横からのぞきこんできた。
そういえば連日のリップ君対策でぴりぴりしていてまともな食事をとっていない。
「今日はもう上がっていいよ。ゆっくり休んで」
いやどちらかというと清掃しつつ、食事をいただきたいのですが。
しかし店長の慈愛に満ちた笑みにそんなことも言えない。
「沢田さん、もう上がりですか。よ、よかったら帰り、い、いっしょに」
どもりながら誘いをかけてきたのはいつの間にかカウンターにやってきていたサカナ君。
聞き耳立てていたな。まあ、それもいつものことか。
サカナ君は俺のストーカーの中でもかなりおとなしいほうだ。すらりと高い背にやや猫背。黒い縁の眼鏡の奥にはおどおどした瞳。ブースに連れ込もうともせず、帰りにマンションの前まで後ろからついてくるだけ。
そして俺はおなかが空いている。
「さ、沢田さん、良かったらこれからお茶でも」
「いやあ、どうしようかなあ」
ずんずんと歩いて、なるべく人の目に触れないように移動する。
表の大通りは夜中でもそれなりに人間はいるけれど、職場であるビルと隣のビルの間にある細道は大きなゴミバケツや放置自転車があるのでめったに人は通らない。俺のストーカーをしているサカナ君はこの道を俺がいつも使っていることを知っているので不審がることもなくついてくる。
ゴミバケツを避けて、サカナ君もついてきたのを背中の気配で確認して、さあいただこうと振り向いた。
「えっ」
バチバチという激しい音が聞こえて、ぐらりと視界が揺れた。
ちがう。俺が傾いたんだ。
よろけてビルの壁に背中をぶつけると、影がおおう。
サカナ君だ。
なにが起きたのかもわからず、顔を上げるとサカナ君の手にはなにか黒い物がみえた。これはもしかしてスタンガンというものだろうか。
「あなたが悪いんですよ、沢田さん。あんなに何度も手紙を出したのに返事をくれないなんて」
手紙ってなに。そう口にしたとたん、またその黒い物を押し付けられた。
バチンという音が頭に響く。背中の大きな神経から頭と足の先まで一気にするどい刺激が突き抜ける。呼吸が苦しくなって立っていられない。
「うっ……あぁああ!」
地面に倒れ込むと、耳元でサカナ君が普段のどもりも忘れてささやく。
「他の男の贈り物は受け取るくせに」
また押し当てられる。さっきよりも長い。身体が跳ねて頬に砂利がざりざり当たる。
いたい。くるしい。立ちあがれない。
油断した。吸血鬼である自分が好む道は変態だって好む。
サカナ君の汗で湿った手が俺の首をざらりと撫でた。
「沢田さん、さあ行きましょう」
そう言って俺のズボンのポケットから自宅の鍵を取り出した。
周囲に人間がよってこないうちにと俺のわきに腕をつっこみ、酔っぱらいを支えるように抱えようとする。このあたりは繁華街も近いこともあって、こういう光景は珍しくもない。
ダメージは人間に比べればたいしたことないだろう。けれど全身がしびれるようなこの感覚はすぐには回復しないのがわかる。
おそらく数十分。けれど連続的にさっきのスタンガンを押し当てられればおなじことだ。
そして数時間後には朝日が昇る。
やばい。これはヤられる。
「ツナ君になにするの、人間」
あれ、聞き覚えある声。
涙でかすむ目の端に人間が吹き飛ぶ姿が見えた。
変態を蹴り飛ばした人物が倒れた俺の顔を覗き込んでくる。
「ツナ君、大丈夫?」
「エンマ君?」
俺の手をつかんで立ち上がらせた拍子に大きめのパーカーのフードがぱさっと落ちる。
赤い髪に赤い目のこの国ではめずらしい容姿。古里炎真。俺の実家のお隣さんだ。もちろん吸血鬼。
「なんでここにいるの? コザァートさんに止められてなかった?」
よろよろと立ち上がりながら、驚いて尋ねた。
俺が村から出るとき一緒に行きたいとは言っていたけれど、人間の生活に不慣れなものがふたりもいるのは不自然だと止めたのは彼の祖父であるコザァートさんだ。
「もうずいぶん経っているからいいと思って。遊びにきた。迷惑?」
「そんなことないよ! うわあ、久しぶり! えーと、一年ぶりぐらい?」
「三年ぶりだよ、ツナ君」
あれ、そんなに帰ってなかったっけ。どうもこの歳になると時間の感覚が。
「ジョットさんとコザァートさんは相変わらず?」
「うんざりするほどね」
エンマ君の顔が嫌そうにゆがむ。なにかあったのだろうか。
いつも縁側でぼんやりしている祖父と、隣に自宅があるのに毎日通ってきては部屋の掃除やらお茶の用意をしているコザァートさんが思い浮かぶ。
「そういえばエンマ君、いつごろこっちに来ていたの?」
「四日前」
「え、そんなに前から? 何してたの?」
「あの店の長期滞在パック使って、ツナ君見てた」
たんたんと答えるエンマ君。しかしその内容は微妙に怪しい。
道理で最近店の中や外でからみつくような視線が増えたような気がするなあと思った。
そこでふとこの数日間の悩みのもとを思い出す。
「もしかして、ワインボトルのプレゼントってエンマ君?」
「ああ、あれはお土産。うちの倉庫にあったんだ。特殊な技術で腐敗しないように保存した処女の血みたいだよ」
道理で香り良し味良し鮮度良しな特級品だと思いました。
しかし、なんで。なんで。
「お土産……なんで直接渡さないの」
「直接渡したら遠慮しそうだから」
「……エンマ君のそういう奥ゆかしいとこ好きだよ」
「ありがとう」
それにしても店長、お客さんとして居るなら居るって言ってくださいよ。たしかに俺は訊きませんでしたが。
「でも一言連絡くらいくれればいいのに。ずっと黙って見ていることないじゃないか」
エンマ君の目が据わる。じっと俺をにらんで「したよ」とぼそりと呟いた。
「ツナ君が悪い」
じっとりした視線と声。
「えっ、俺、なにかした?」
「手紙出したのに返事くれなかった。遊びに行ってもいいか訊いたのに。もしかしたら嫌われたんじゃないかと思って不安になったから隠れて見てたんだ」
なんかとても似たようなことがついさっきあったような。