ゆびきり
中学校に上がる前まで親父はオレに庭師の後を継がせようとしていたが、オレにとっては幸いにもバレーボールで才能を見いだされ、犬神家の支援を受けて黒曜谷学園に奨学金付きで通えることになった。
鏡子の体は相変わらず弱いままだ。セッターとしてはピカイチの技術を持つが一セット終わると吸入器を使わないといけない。バレーボールのテクニックを磨くためにサラを付き合わせて犬神邸内の体育館で練習をしているが、それを知っているのは犬神家の使用人でも一部、黒曜谷の生徒に至っては智之とオレくらいしかいないと思う。
鏡子にも智之にも言えることだが、いいとこの坊ちゃん嬢ちゃんが親の力でレギュラー入りして道楽で部活をしていると思われることが多い。しかしそれは間違いだ。
智之は一般常識こそやや疎いが、元々のセンスに加えて練習態度は極めて真面目だ。同じチームに入って見ていればそんなこといやでもわかる。鏡子は自主練を積んでこそのあの技術だがそれを他人に言わないから誤解は解かれないままだ。
「私はいいんだよ。チームが必要な時に必要な働きができればそれでいい」
去年、周囲の誤解について話した時の鏡子の答えがこれだ。
「喘息を治さないのは誰のためだ? 病気が治ればサラが用済みで追い出されるとでも」
「はーいそんな怖い顔しないの。ただでさえ老け顔なのにますますオッサンに見えるよ?」
「誰がオッサンだ誰が」
核心を突こうとするといつもこうだ。はぐらかし、論点をずらし、するりとすり抜けたかと思うと目の前でいたずらっぽく笑う。
「それよりも雲海、お願いがあるんだけど」
「なんだよ、月バレの付録ならやらねーぞ。ルミたんポスターは貼る用と保存用を死守するからな」
「違うよ」
わざと冗談交じりで言ったオレに向かって鏡子が笑って小指を差し出した。
「遠くに、行かないでね?」
さっきまでのいたずらな笑いとは程遠い、今にも消え入りそうな微笑みだった。
ニヤニヤ笑いを浮かべ、人を食ったような言動を繰り返すトリックスターというのが部活外、いや、部内でも限られたやつ以外が抱く鏡子のパブリックイメージだ。しかしこの儚い空気を纏ったこれもまた鏡子だ。生来の体の弱さで同年代の子供よりも行動は著しく限られ、犬神家の娘として特別扱いをされることでますます友人が出来づらくなって否応なしに周囲との壁を幼い頃から感じずにはいられなかった鏡子は、自分の弱さを周りに主張することを滅多にしない。こんな顔をするのは、サラかオレに対してくらい。
「……行かねーよ」
オレも鏡子と同じように、小指を差し出した。
子供の頃の指切りのように無邪気な気持ちのものではない。今一番近くにいるけれど、自分のものにはならないとわかっている女。遠くに行かないというこの約束でさえいずれは破ることになるのに、それでもオレは鏡子の小指に自らの小指を絡ませた。
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます、ゆーびきったっ。……そういえば雲海、明後日から九州遠征だっけ? 約束したのに遠くに行っちゃうんだね?」
「おい、ちょ、それは反則だろ、前から決まってたっつの」
「破るんだー、雲海ったら私との約束破るんだー」
鏡子はさっきまでの儚げな様子はどこへやら、いつものニヤニヤ笑いを浮かべながらあからさまに嘘泣きをし始めた。
「千石さんみーっけ、って、犬神さん泣かしてるー!」
どこからかオレを探しに来た後輩が大きな声でこちらを指差した。
「泣かしてねえ! どう見ても笑ってんだろこれ」
「図子くーん、雲海はひどいやつだよぉー」
もう嘘泣きさえひっこめた鏡子は笑いながら、こちらへ不在を問い詰めに来る後輩とすれ違うように走り去ろうとしていた。建物の陰に隠れそうになる瞬間、くるっとこちらを振り返ると指を二本立ててこちらに投げキッスをよこしてすぐ消えた。
「あいつ……!」
「はいそろそろ部活戻ってくださいよ? 今日はシゲルもなんか用事でいないし由良木も帰っちゃってるし千石さんまでいないとかありえねっすよ。頼んますよ、新キャプテン」
春高が終了して3年が引退し、オレが黒曜谷男子バレーボール部のキャプテンに指名された。示しが付かない、なんて頭の固いことを言える身ではないが、身分としては少々固いことを言い、実行しなければいけないようになっていた。着慣れない服を着せられたようで最初は戸惑ったが、これも目標を叶えるための手段なのだ、と自分を納得させるようにオレはそれを受け入れていった。
鏡子とずっと一緒にいることは叶わない。しかし犬神家の世話にならないように自分で自分の身を立てること、出来る限りこれまで犬神家に世話になった分はお返ししていくことはできる。
バレーボールはオレにとって、幼い日の誓いだけではなく、これから生きていく上での手段になっていた。それを嘆くつもりもなかったけれど。
「千石さーん、早く―!」
せかす声に手を振りながら、未だ残る鏡子の小指の感触が、そこから熱を広げて体中を満たした。
『遠くに、行かないでね?』
かすかにリフレインされた鏡子の声を振り切るように、オレは体育館へと走り出した。