永遠と麦の穂
永遠と麦の穂
オアシス内をさまざまに見て回ってわかったことは、自分は何も知らないのだ、ということだった。
武力による戦争の根絶。それは絶対に必要なもので、刹那の根本を為すものだが、ソレスタルビーイングの理念を必要としていない場所も確かにあるのだ。
世界中に紛争の事実を知らしめて、人々に自覚させることが使命でもあると思っていた。
けれど、知らないことが逆に幸せなのだ、という考え方もあると知った。
どちらが正しいとは、刹那には言えないけれど、ただ、人の幸せのあり方は画一的ではないことだけは理解した。
麦畑を耕す人にとって、世界に紛争が起こっている現実が大切ではないように、空を飛ぶことを夢見ていた少年にとっても、それは同じなのだった。
「刹那、君も食べないか? せっかく買ってきたんだ。新鮮なうちに一ついただいておこう」
昼間の市場で購入したオレンジを宿のテーブルにおいて、グラハムが誘ってくる。明日はまた砂漠を行くので、水分と栄養補給のために買っておいたものだった。
「明日の食糧なんだが」
「いいじゃないか、一つくらい」
グラハムには話が通じない部分がある。けれど、彼の金で購入したものを、彼がどうしようと自由であった。
刹那も相伴に預かろうと、椅子に腰を下ろした。グラハムが嬉しそうに笑う。その笑顔は、わりとそのままに感情を表していると思った。
地中海を渡ってきたオレンジは、太陽の恵みを受けて甘く瑞々しい。必要なものを必要なだけ与えれば、植物は素直に育つ。もしかしたらそれは、人間にも言えるのかもしれなかった。
「明日はまた砂漠に野宿だ。南へ行くルートでちょうどいいオアシスがないんだ」
「別のルートを選ばない理由は?」
「駱駝の延滞料がかかる。……あと、そんなに長い時間を空けられない」
「ああ、なるほど」
グラハムは刹那の言いたいことを理解して頷いていた。
「そうか。では君といられるのも、あとわずかなのか。それは残念だ」
「……引っかかる言い方だが、まぁ、そうだ」
「まだ興味があるというだけだよ。安心したまえ」
すごく勝手だが、その言い分もどこか寂しい気がした。
生きる目的、未来への道。彼のそれはどこにあるのか。見つけたい、いや、見つけてやりたかった。
それができれば自分は──。
「俺は……」
「うん?」
「──いや、なんでもない」
大きな瞳に見つめられて、刹那は慌てて首を振り、目も逸らした。
(バカだ)
今更それをしたって、罪が消えるわけでも忘れてもらえるわけでもないのに、微かな期待をした。この手にだって、つかめるものがあるのではないか、と。
(あるはずがない)
またそれを望んでいいはずもなかった。たくさん奪っておいて、自分だけ手に入れるなんて浅ましい考えだ。
「刹那」
「──なん、!?」
名前を呼ばれて素直に振り返ると、返事をした口の中に何かが差し込まれて驚いた。
「なっ」
「私の最後のオレンジだ。君にあげよう。満腹になったら眠たくなった。おやすみ、刹那」
そう言うとグラハムは立ち上がり、オレンジの皮を持ってゴミ箱へと捨て、軽く手を洗ってから、言葉どおりにベッドの中へ潜り込んでいた。
グラハムがくれたオレンジの一房を手に持ったまま、刹那は一連の行動を見送った。
なんなんだ、と思いながらも、自分の手の中にあるオレンジを見つめ、それを口に含む。甘く潤う果汁が、刹那の波立つ心に深く染み込んでいくようだった。
翌日は、今までよりも暑い気温と、容赦のない日差しにさらされて、中東の気候に慣れている刹那でも厳しいと感じる陽気になった。
よく喋るグラハムの口も閉ざされて、行程は静かなものとなったが、その代わりに距離は稼げるだろう。
太陽がもっとも輝く中天に差し掛かる頃、刹那の後ろを黙々とついてきていたグラハムから、出発時以来の声がかかった。
「刹那……、少し、日陰で休まないか……?」
振り返れば駱駝の上で、俯き加減に弱々しく訴える男の姿があった。確かにこの日差しは辛いだろうけれど、できればもう少し距離を稼ぎたい刹那は妥協案を打ち出した。
「あそこに見える岩場まで、我慢できないか?」
「……私は、我慢弱い……が、どれくらいだ?」
「一時間もあれば着くと思うが」
「一時間か……、わかった、我慢しよう……」
息も絶え絶えな彼の様子にいくらか申し訳ない思いもあったが、いい大人なんだから大丈夫だろうと、後から思えば少々判断の甘いことを考えた。
砂漠を渡るのは初めてだと、最初にグラハムは言っていた。刹那はもう少し配慮すべきだったのだ。
約一時間の道行きを終えて、岩場の日陰に入った瞬間、後ろの駱駝が小さく鳴いた。
「どうし……、おい、大丈夫か?」
駱駝の上に跨っている男は、グッタリとその身を背中に預けて倒れこんでいる。慌てて駆け寄って声をかけてみたが、反応がない。どうやら気を失っているようだ。
「しまった……」
熱射病か、熱中症のどちらかだろう。声をかけてきた時点で、すでに限界が近かったのかもしれない。
刹那はグラハムの身体を引っ張り下ろして、砂地に横たえさせた。衣服を緩め、軽く頬を叩いて意識を取り戻させる。
「……ん……」
「大丈夫か?」
聞きながらタオルを水で湿らせて、首やわきの下といった器官に当てて冷やしていく。氷が欲しいが、さすがにこんな砂漠の昼間ではどうにもならない。
ぼうっとした瞳で刹那を見上げてくるグラハムに、水を差し出して飲ませた。
「飲めるだけ飲め」
無言で言われたとおりにするグラハムをありがたく思いながら、刹那はすぐに温くなるタオルを何度も交換していった。
「……倒れた、のか?」
いくらか意識のしっかりしてきたグラハムが聞いてくる。
「そうだ。気づけなくて悪かったな」
「いや、倒れたのは私だろう……、迷惑をかけているようだな……。すまない」
「気にするな。こういうのはナビゲーターの責任なんだ」
刹那がキッパリ言うと、グラハムもそれ以上は何も言わなかった。
「今日はここにキャンプを張るから、ゆっくり休め」
「……いいのか?」
「ああ。午前中でだいぶ進めたからな。ここまで来れば砂漠もあと少しで終わりだ」
「そうなのか……。長いような短いような、不思議な時間だったな」
本当に夢心地で呟かれた言葉に、刹那もまた同じような感想を抱いた。アロウズであるグラハムを逃がそうとしたのは、彼に安易な死に場所を与えないためだった。けれど白状すれば、そうやって生かすことで、刹那は救いを得ようとしたのだ。戦うだけしか知らない自分にも誰かを救えるのだという、そんな証みたいなものを。
刹那のエゴに、グラハムは付き合わされる格好だった。彼がそれに気づいていたのかどうか、刹那にはわからない。もし気づいていたとしたら、けっきょく、自分には何も救えなかったと判明するだけである。
だから刹那は、それに気づきたくなかった。
けれどその猶予もアザディスタンに着くまで。そのときが来れば、嫌でも答えが表示されてしまう。
長いような短いような、そんな逃避行の終点はもうすぐそこだった。