永遠と麦の穂
刹那は黙った。頭ではまだ、「でも」とか「それは違う」と否定する部分もあったが、グラハムの説得に段々と心が軟化していっている。
「駱駝の旅も楽しかったぞ」
「……今日は熱中症にさせた」
「それも勉強さ。いい経験ができたよ、刹那。全部、君が教えてくれたことだ」
ポンポンと、背中を叩かれた。宥めるように、労わるように、その手は夜気に冷えた身体には心地よかった。
「アンタはどうして……」
「言っただろう? 私は君に興味があると。それは君がそれだけのことをしたという証明だよ」
刹那は唇を噛みしめた。そう言ってもらえるだけのことをしたとは、とてもじゃないけど思えない。救いたいと思った相手に慰められている現実を知れば尚更だ。
(──俺は本当に無力だ)
何も知らなくて、何もできなくて。そのくせ、世界を救った気になっていた。
惨めだと感じていたところへ、一陣の風が吹いた。夜にしては暖かい風が、わずかに砂を巻き上げながら、刹那のマントやグラハムの服の裾を揺らしていく。
ぼんやりとその風の流れを目で追っていたら、抱きしめてくるグラハムの髪の毛がふわり、と刹那の頬をくすぐった。その感触に、一瞬だけ目を閉じる。
刹那の黒髪とはまったく違う色。同じ人間なのに、どうしてこんなにも何もかもが違うのだろう。黄金色のうねりを見ていたら、それをつかまえたくなった。
力なく下ろしたままだった腕を持ち上げて、刹那は自分の掌を眺めてみる。
真っ赤に染まる掌でつかんでいいものは、永遠とは反対の意味を持つものだけだと、ずっと思っていた。
けれど、今、どうしても。
(抱きしめたい)
金色のゆらめきを持ち、豊穣の名を持つこの身体を。
ノロノロと動かす腕が、もうじき髪に触れる。触れた瞬間に神の雷が落ちたとしても、刹那は構わなかった。
意を決めてつかんだ指先に絡まるのは、波打つ麦の穂先。刹那の知らないはずの風景が、頭の中に浮かんでくる。
風に揺れて踊る、まるで海の漣を思わせる黄金色の草原。大地に根付き、人々に豊かさを与え続ける──。それは永遠の営み。
ギュッと抱きしめる力を強めた。柔らかなクセのある髪の毛が、刹那の指に絡んでくる。
意味合いが違うことはわかっていた。でもこれは、この手の中にあるものは、刹那がつかめないはずの永遠を、比喩的に表すものと同じだった。
グラハムを救いたいと思いながら、刹那もまた彼の存在によって救われていたことに、ようやく気がついた。
誰かを救うなんて、最初から思いあがりだった。人は神ではないのだから。
刹那は《純粋種》と呼ばれようとも、本質はただの人間でしかなく、救いや永遠を求め、小さなことで思い悩む、そんな無力な生き物なのだと思い知らされた。
〈オーライザー〉の力から離れてみてよかった。グラハムと話をし、旅ができたことを、素直に感謝している。
「礼は言わないと言ったが、ありがとうと言わせてもらおうかな」
「……何に、だ?」
むしろ礼を言うのはこっちのほうだと、刹那は驚いた。
「君が私のためにいろいろしてくれたことに、だよ。ありがとう、刹那」
「そんなの……」
たいしたことではないと思う。グラハムが教えてくれたことに比べたら、雲泥の差だ。刹那が自信を持って教えられることなんて、武器の持ち方や扱い方、人の殺し方などでしかない。
平和となった世界には不必要なものだ。それでも今は、刹那に向けられた『ありがとう』という言葉だけで、この先を生きていけると思った。
「──ところで、そろそろ離れないか?」
頭の中が冷静になってくると、男二人で抱きあっているこの状況が恥ずかしい。
「何故だ。暖かいじゃないか。刹那も暖かいだろう?」
軽く首を巡らしたグラハムが、ふざけ半分に額をぶつけてきた。ゴチンと音がして、思わず顔を顰める。それがきっかけとなって、本格的に冷え込みが厳しくなる頃まで、二人で砂漠の上を他愛のないことでじゃれ合った。
それは刹那が、年相応に戻れた貴重な時間だった。
◇◇◇
「今日も暑くなりそうだな」
グラハムが天を仰ぎながら言う。
まだ太陽の位置は低く、空も夜の帳を西側に残したままの状態でありながら、天気は晴れ以外にないと断言できる砂漠は、嫌でも人を行動的にする。
「昨日の件があるから、今日はこまめに休憩を入れながら行くぞ」
テントを畳みながら刹那は言った。畳みながら、もうこれを使うこともないのだなと思う。
「そのペースでも問題ないんだね?」
「ああ。昼には砂漠を抜ける。少し行けばアザディスタンの北端だ」
「わかった。旅も終わりだな」
グラハムにポツリとこぼされて、刹那は動きを止めた。
「アンタは、これからどうする?」
「そうだなぁ、連邦の動きなどを見ながら、頃合をみてアメリカに戻る、かな」
「そうか……」
いまだ明確な道はなくとも、生きることを選んでくれたなら、刹那はそれでいいと思った。未来を見つけることが救いだと考えて躍起になったけど、彼の人生に過干渉することは傲慢な行為だった。
それにどちらかといえば、今回の逃避行で救ってもらえたのは刹那のほうだろう。グラハムはずっと、ソレスタルビーイングの一員としてではなく、刹那という人間個人を相手に接してくれたのだ。
だから、気づけたことがある。
「グラハム・エーカー」
「なんだ?」
「アンタは昨日、俺からいろいろもらったと言ったけれど、俺はやはりそうは思わない」
グラハムは少し考えるように小首をかしげていた。
「俺は生かすための方法とか、そういったものを何も知らない。でも一つだけ、俺自身の手で渡せるものがある」
「……ほう?」
やや興味を引かれたように、グラハムの唇がほころんだ。それはなんだと、目だけで先を促してくる。
「俺の名前だ」
「名前? 名前ならもう」
意外な答えに彼の目が丸くなる。刹那はすぐに、その理由を述べた。
「刹那・F・セイエイはコードネームだ。ソレスタルビーイングの。お前が指摘したとおり、刹那と言う名は俺の本名じゃない」
最初に名乗ったとき、グラハムは本名かと聞いた。刹那はそれに答えなかったけれど、そのときから彼は本質を鋭く見抜いていたのだ。
「君の本名を教えてくれると言うのか? だが、そんなに大切なものを私に教えてもいいのか?」
「構わない。むしろ、知っていてもらいたい」
何故、と驚いたように、グラハムの目が大きくなった。
「俺はこれから先もずっと、刹那・F・セイエイとして生きる。恐らくもう本名を名乗るときはないと思う。俺が死ぬそのときまで」
「……刹那。そんな悲しいことを言ってはいけないよ」
「いや、それでいいんだ」
ソレスタルビーイングの一員として、ガンダムマイスターとして、戦争根絶を果たすために生きると決めた。たくさんの命を殺めた罪は、個という犠牲を払うことで償う。
『刹那・F・セイエイ』は何も望まない。何も願わない。何も欲しいとは思わない。この身のすべてを世界のために捧げて尽くす。そして未来のために死んでいけばいい。
個人の幸せは一つではないと知ったからこそ、それが刹那の生きる道であり、望む未来の形なのだと気づいた。