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太陽の国(3・ガーランドガーデン)

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 私はふと思い付いて、鞄から本を取りだした。
 見たことのない本だったのだろう。彼は興味を隠しながら、私が持つ本をはすに眺めた。

「ストックレの聖体皿って、見たことある?」

 私が言うと、彼はそれまでの強い態度をおさめて急に黙った。かかった、と私は思う。そして心の中だけでこっそり笑った。さあ、彼はどうするかしら。

「ない」
「知ってる?」
「…」

 あら、案外素直だわ。
 彼は悔しそうに瞬きをした。聞き慣れないフレーズはきっと、彼の頭からピクニックのことを追い出してしまっただろう。彼は睨み付けるほどの強い目で私を見て、そのフレーズからなんとか形を取り出そうとしていた。
 ストックレの聖体皿、そんなもの、私だって見たことないわよ。

「イギリスから出たことはある?」
「…ない」
「ルーヴルは知ってる?」

 ノーと言い続けることは、彼にとってはよほど悔しいことだったらしい。知っている、と彼は急いで言った。

「行ったことは?」
「ない」
「ほら、とりあえずこれ」

 私は本をぱらぱらとめくって、そのページを開いて彼の方へ向けた。彼が身を乗り出したから、私は私の隣のスペースをてのひらで叩いた。
 こっち来なさいよ。
 彼は一瞬怯み、少しだけ視線を泳がせた。けれど私が差し出したページは、彼が自分の行動に理由付けをするに足る程度には興味深いものであったらしい。僕はそのページが見たいのだ、と、他の誰にでもなく自分に言い訳をしながら彼は腰を上げる。
 その気持ちは分からないではない。だから、私は何も言わない。
 さくさくさくと3歩の距離を歩いて、彼は私の隣に座った。日なたは温かい。人の隣は暖かい。そういうことを少しは彼も知ればいい。ランチもお茶もお菓子もないこれはピクニックとは似ても似つかないものだけれど、ここに広がる景色だけはピクニックそのものだ。繋ぐ手はなく、歌もない。私にとってもこのピクニックはまがいものだ。それでも春は暖かい。風は芳しい。そこに嘘の入る余地はない。
  ページに降りかかる光は文字を読むには少し強い。私は自分の身体で影を作った。
 彼は本を覗き込み、ふうん、と言った。

「で、どんなことができる?」
「どんな?」
「過去が見えるとか、離れた場所にいる相手と話ができるとか」
「そういうのは何もなさそう。ただ古くて、ちょっと綺麗なだけ」
「ああ、そういうものか」
「でももしかしたら、なにかできるかもしれない。この本を書いたのはマグルの人だから、気付かなかっただけかもしれないし。何かできそうな感じ、する?」
「さあ、これを見ただけでは」
「実物を見たら、分かるかしら」
「分かるだろう」
「私たちがもう少し大人になったら、」

 私は本を開いたまま、彼の膝の上にそれを渡した。

「きっとルーヴルだって、行きたいときにいつでも行けるわね」

 子供じみた述懐と、笑うなら笑え。およそ理知的でないことをいま私は言っていると、その程度の自覚はある。
 けれど彼は、

「そうだな」

 良い天気ねと言われて返事をするときのような、声で。
 
「ルーヴルだろうがメトロポリタンだろうが、どこでも行ける」

 ゆったりと本を眺めながら、彼はそう言った。
 アンティークと呼ぶには古すぎる皿。巧緻な細工とそれを彩る宝石。私がいた世界から持ち込んだこの本の写真は動かない。長い時間をひたりと見据えて動かない。

「素敵ね」

 やっとの思いで、私はそう答える。
 彼は本のページを眺めている。私はゆっくりと目を上げて、細波を立てる湖面を眺めた。湖から吹く風が頬をふわりと撫でる。

「ナショナルギャラリーも好きよ。近くに美味しいパン屋さんもあるし」
「ほう」
「噴水もあるし」
「悪くないな」
「そうだ、地下鉄は乗ったことある?」
「地下鉄…」
「ついでだから飛行機も乗ってみる?乗ったことないでしょ」
「あれは性に合わない。箒の方がましだ」
「でもルーヴルまでは遠いわよ」
「ナショナルギャラリーじゃなかったのか」
「ついでだもの。どうせだからスフィンクスとか見に行きましょうよ」
「ずいぶん遠いな」
「あれは絶対魔法のものだと思うの。夜になったら動くし」
「本当か」
「嘘」

 湖面を眺めたまま、くすくすと私は笑う。隣で彼が小さく笑った気配がする。私は草の上に指を滑らせた。さらさらとかすかな音がした。

「スフィンクスの次はウイーンでオペラなんてどう?」
「どうせ食べ歩くつもりだろう」
「失礼ね!」
「太るぞ」
「うるさい。あなたも食べなさいよ。デメルのチョコレートなんて有名よ」
「甘いものは嫌いだといっているだろう」
「まだそんなこと言ってるの?無理矢理でも口に入れるから安心しなさい」
「僕は食べない」
「ああ楽しみだわ」
「スフィンクスまでは良かった」
「そう?じゃデメルは諦めるわ。スフィンクス、きっとよ」

 軽く言ったつもりだったけれど、思いがけず念を押す形になってしまった。そういうものをここに持ち込むべきではなかった。はっと口を噤んだ私の指に彼の手が触れた。そのまま、彼の指は私の小指をすくい上げる。草の隙間にこそりと差し出された不格好な宣誓。私は視線を落とせない。私が彼の目を見ることができないように、彼もまた私を見てはいないだろう。ゆびをそっとからめて、私はまばたきもせずに湖面を見つめた。きらきらと跳ねる光。風が作る波紋。空を映す青。

「…きっとよ。約束よ」
「ああ、約束だ」

 短い草花を編んで冠を作るように、緩く、強く、指を合わせる。誓約の形は子供っぽく、安っぽかった。私たちの間に交わされたはじめての約束は、それは誓いよりも祈りに似ているものだったけれど、だからといって価値がないなどと誰に言えるだろう。大人になればどこへでも行ける。それは素敵で、正しいことだと、私は思う。私たちはネバーランドを望まない。私たちはいつまでもこのままではいられないし、このままでいたいと願ってもいない。私たちはドアを開ける。新しい世界を開く。渡りの方角を知る鳥のような頑なさで、私たちは顔を上げる。ホグワーツの庭は生まれたばかりの季節の匂いに満ち、天からは祝福と見紛うほどの光が降り注ぐ。モラトリアムの終焉はどうしてこんなに美しい。なにもかもがこの白い光の中に包まれているのに、どうして溶けてしまわない。

 うそつき。

 口をついて出そうになる言葉を唇でとどめる。嘘を吐くことが罪なら、私も同罪だ。
 彼は私の罪を責めない。
 だから、私には彼の罪を責める資格がない。
 叶えられることのない約束はいつか朽ちて果てるだろう。いつか?いいえ、そんなものは口に乗せる端からほろほろと砂になる。風葬のように空に舞って消えてゆく。わたしたちは何も紡がない。わたしたちは何も残さない。けれど触れる指先からは今も暖かなものが通いあっている。そこには真実の名を持つものもあるだろう。私はそれに花冠を手向ける。咲いたばかりの野の花を摘んで優しく編んだ花冠。終わる世界にたったひとつ、かたちを残してゆけるもの。

「ありがとう」

 そう言ったのは彼か、それとも私か。