正しいこと
メガネの神経質そうな若い先生だ。鉄朗の担任で、クラブの顧問などではないから夏休み中の体育館に顔を見せたことはない。先生も夏休みなのかと思っていたくらいだ。
「……？」
あまりいい話ではなさそうだと思いながら呼ばれるままに体育館を出た。教室の方ではなく、靴を並べてある体育館脇から出るように言われた。
「研磨、俺だけに用があるみたいだから残ってろよ」
無言で外履きにつま先を突っ込んだ研磨を返そうとしたが首を振られた。体育館には今日はドッヂボールとバドミントン、ミニバスのメンバーがまばらに集まっている。教室と違って居場所が決まっていない体育館で一人ぼっちは嫌か。もし行った先で邪魔になることがあったら脇に避けて待ってるだろう。そう思って一緒に体育館を出た。
先に回りこんで外にいた先生を追って案内されたのはクラスの花壇だった。花壇の前に池谷が立っている。そういえば、今日は久しぶりにバドミントンクラブが集まっていたのに姿を見なかった。
どうしたんだと池谷に声をかけようとして、先に研磨にシャツを引かれて花壇を見た。植物が全て萎れている。そういう時期でもないのに、もう無理だと思うほどクタクタになっていた。
「なんだこれ」
自分の当番の日以外はわざわざ見に来ないものだから驚いた。ニチニチソウもマリーゴールドも緑色のまま力が抜けたようになっている。授業の一環でみんなで育ててきたものだ。同じ学年の他のクラスもそれぞれ植えた中で、鉄朗のクラスの花壇だけが元気をなくしている。
「黒尾くんは昨日は来なかったね？」
先生に尋ねられても何のことか分からなかった。池谷は黙っている。
「体育館には来てたけど、花壇は当番じゃなかったし……」
もう長い夏休みも終わり。出席番号順の当番は一周している頃だ。カ行の黒尾まではギリギリで戻って来なかったので当番表の確認はしていなかったけれど、ここでピンときた。
「昨日の当番って、池谷？」
ハーフパンツのポケットに手を突っ込んだまま花壇を睨みつけていた池谷が地面を舐めるような動きでやっと視線を寄越した。
「当番表だと俺の番だけど、……俺じゃない」
その意味の説明を引き継いだのは先生だった。
「池谷くんは黒尾くんに当番を代わってもらったから昨日は来なかったそうです」
「ちょっと待てよ、そんな約束してない」
「したっ！しただろっ？！」
怒り気味に顔を上げたかと思ったら、背後に存在感なく立っている研磨を見つけて語尾が弱くなった。
「ほら、俺んち遠くて水やりに来るのが大変だって言ったら、黒尾んち近いし体育館開放に来てるから代わりにやってくれるって……」
「それは一回だけ、一回目の当番だけ変わったけど、二回も代わるなんて言ってない」
「言った！それをお前が忘れたんだろ！」
「はぁ？」
確かに「明日だけ」代わってやる約束をした。ちゃんとそう言ったはずだ。夏休みの初めで予定表を確認したばかりで、出席番号が早い池谷が二回当番が回ってくるのを知っていたから。ちょうど二回目の当番があるかないか怪しい出席番号だったからよく確認したのだ。
「何怒ってんだよ。忘れたのは俺じゃなくてお前だろ？」
「俺はお前がやるって言うから安心して来なかっただけじゃん！」
最初は馬鹿馬鹿しいと思っていたのに、こうも全力で罪をなすりつけようとされると腹も立ってくる。あまり研磨の前でムキになったりしたくないのだけれど。
言い返す言葉を考えていたら先生が割って入った。
「一回は代わってあげたんだね、黒尾くんは」
「水やりに来るのが大変だって言ってたし、一回だけって約束だったから」
「黒尾くん、」
本当のことを言っただけなのに言い訳のように響いた。それを諌めるように名前を呼ばれる。
「親切なのはいいことだけど、水やり当番をみんなで責任もってやるのもお勉強です。それに一度引き受けたことは責任持ってやらないといけないね」
「引き受けてません！」
「じゃあ池谷くんが勘違いしたのかな」
違うともそうだとも言わず池谷はまた花壇を睨んでいた。
「どちらにしろ、池谷くんは自分で当番をやらなかったことをもう謝りました。黒尾くんも悪気がなかったことでも反省しましょうね」
どこかの木で蝉が鳴いている。校舎の影が縮んで日なたが迫っていた。暑いのに指先は冷たくて、足元から寒気が這い上がってくるようなのに頭は熱があるみたいで口が乾く。
何も悪いことなんか、反省させられることなんかしていない。ただちょっと友達を手伝ってやっただけなのに、濡れ衣を被せられて説教をされて反省しろと言われてもわからない。大人はいつも人に優しくしろ、困っていたら助けてやれと言うのに。
勘違いなんて信じられない。責任というなら当番を頼んだ池谷が悪いんじゃないか。
言いたいことはたくさんあった。ありすぎて、順番も定まらなくてなかなか口からは出て来なかった。
何を考えているのかわからない先生の顔、萎れた無残な花壇を睨む池谷、半身を焼く日差し、蝉の声。
沈黙してからどれぐらい経ったのかわからない。やけに長くそうしていたように感じたけれど、実際はほんの数十秒のことだったかもしれない。鉄朗を見つめていた先生の視線が僅かに逸れた。
「えっと、……孤爪くん？だったかな」
いろんな感情のうねりに巻き上げられてぼんやりし始めていたのが研磨の存在を思い出したことで急に鮮やかな現実に戻された。
「黒尾くんとよく一緒にいるけど、黒尾くんが池谷くんと約束した時も一緒だったの？」
「えっ……あっ、あの…………」
最悪だ。なんでついてきただけの研磨まで巻き込むんだ。自分が責められてるみたいに小さくなってうろたえている。研磨は他人と普通に話すのだって苦手なのにとばっちりで嫌な気持ちにさせている。
奥歯を噛み締めて深く息を吸った。
「ごめんなさい」
どうやって帰ったかあまり覚えていないが、母親の呼びかけを無視で自分の部屋に戻ったら当然のようについてきた研磨が勝手に窓を閉めてエアコンのスイッチを入れた。
階段を登ってくる足音に研磨が一度部屋を出て、お茶とアイスを持って戻ってきた。
「クロ、これ折って」
霜のついた棒状のアイスを渡された。二つに折って半分にして食べるやつだ。研磨は二つに折れてもビニールのパッケージが上手く捻じ切れないから半分にするのはいつも鉄朗の役目だった。
閉めきった部屋は低いエアコンの音しかしない。アイスで口の中が冷えてくると少しだけ頭がましになった。怒っている時なんかに「頭を冷せ」なんていうけれど直接冷たいものを当てるのは有効なのだろうか。
「ごめん」
さっきよりずいぶん楽に言葉が出た。相手が研磨だからかもしれない。
「なに？」
手のひらの熱で溶けるのを待ってアイスを啜り、冷たくなりすぎた手をむき出しの腕や足にぺたぺた張り付けて熱をとってはまた手でアイスを包み込むのを繰り返しながらちらりとこちらを向いた。
「さっき、俺のせいで嫌な思いしたろ」
「別に……」
ちんたらした食べ方に飽きたのか、ついに小さく歯を立てる。
「おばさんが、どうしたの？って心配してたよ」
「……大したことじゃねえよ」
「うん。何も言ってない」