オンリー・ワン
「何を急いでいる」
声の方向に目を走らせたカタリナは慌てて足を止めた。
「ミカエル様」
北西にある踊り場のような小さな部屋から、ロアーヌ領主が不機嫌そうにカタリナを見つめている。
「どこへ行く」
問われてカタリナは口ごもった。何をしに行こうと思っていたのだろう。
「あの……執務室にミカエル様がおられると思って」
「急ぎの用か」
「いえ、そういうわけでは……」
「ならばむやみに宮内を走るな。おまえほどの立場の者が走れば、何事かと皆、不安に思う」
ゆっくりと小部屋から出てきながら、ミカエルは言った。
「……申し訳ございません」
恥ずかしさに視線を落としたカタリナを、ミカエルは真正面から見つめた。
「で、何の用だ」
「あの、今日のご政務は?」
「ヨハンネスが来られなくなり、今日の政務は延期となった」
「さようでしたか……」
それきり口を閉ざしたカタリナに、ミカエルは重ねて問うことをしなかった。代わりに、腕を伸ばしてカタリナの髪に触れる。
驚いて無意識に身を引いたカタリナにミカエルは言った。
「濡れているな。風邪を引くぞ」
洗った髪が、まだ湿っている。短い時はすぐに乾いたのだが、肩まで伸びた髪は容易に乾かない。手を引っ込めながらミカエルは言った。
「私のせいで風邪を引いたなどと言われてはたまらんからな」
薄い唇に笑みが浮かんだことで、珍しくミカエルが冗談を言っていることにカタリナは気づいた。
分かっているのだ。カタリナが再び髪を伸ばし始めた理由を。
カタリナにとって、ミカエルの言葉一つ一つが宝物のように大事だということを。
「はい……」
消え入りそうな声で、カタリナはうなずいた。軽口を言ってもらえた親密感と、あの時の会話を覚えてもらっていた嬉しさに胸が熱くなる。それは、忠誠心という堅苦しい感情だけではないことを、カタリナ自身が一番良く知っていた。
ミカエルはためらうようにもう一度腕を上げかけたが、思い直したのかそのまま踵を返した。
「明日の謁見にはおまえも出席するように。南方ジャングルに詳しい者がわが国を訪れている」
背中を向けて言ったその声は、普段の硬質なものであった。すぐに背筋を伸ばしてカタリナは答える。
「かしこまりました」
背を向けたままミカエルは言った。
「ウォードを好きか?」
が、すぐに片手を上げて制した。
「いや、なんでもない」
そのまま歩き出した主君の背中を、焦りながらカタリナは見つめた。
すぐに追いかけて説明すべきだろうか。
しかし事柄が事柄だけに、戒めのように厳しく訓練されてしまっている自制心が、とっさのその勇気を許さなかった。
ふいに、ミカエルが立ち止まって振り向く。
「あいつはいい奴だが、女癖はあまり良くないぞ」
そのくだけた口調にカタリナはびっくりしたが、ミカエルの笑みにつられてすぐに微笑みを浮かべた。
「覚えておきましょう」
その頃、カタリナの部屋のウォードは大きなくしゃみをしていた。
――終――