風香の手帖
最終話 「未来の証」
電話では冷却期間をおくと小岩井は風香に言ったものの、具体的には何も決まっていなかった。
今回のことについて、風香はまったく悪くない。
風香の隣で歩いている男子生徒という存在はあったが、他はすべて小岩井の頭の中での思い込みであった。
だが小岩井はその思い込みから抜け出せずにいる。
しかも小岩井自身どうすればいいのかわからず、毎日を無気力に送っていた。
小岩井は居間の畳に寝転び、今日も風香のことを考えていた。
もう久しく会っていない。
だが彼女のことが、常に頭から離れなかった。
大事な物は失ったときにわかるというが、今の小岩井にとっての風香は、まさにそれであった。
(俺、こんなに風香ちゃんのこと好きだったんだな)
だが今更どんな顔をして会えばいいのか。
はたして風香は許してくれるのだろうか。
小岩井は毎日同じことを考えている自分を嗤った。
そのとき玄関から声が聞こえた。
「ちーす。おじゃましまーす」
小岩井の後輩である”やんだ”こと安田がやって来た。
「やんだか。久しぶりだな」
「またお湯くださいよ」
「よくカップ麺ばっか食えるな」
「安いしうまいし、問題ないっしょ」
「……」
「よつばは?」
「……隣の家に行ってる」
「小岩井さん、元気なさすぎ。もしかしてその年で失恋?」
「おまえ何でわかるの?」
「俺、恋愛関係は超詳しいっスよ」
「でも、ミキちゃんにふられてなかったか」
「ふられたら次見つけるだけ。女なんて世の中に山ほどいるんだから」
「まあそうだが、おまえ本気で好きになったことあんの?」
「俺はいつも本気。でも、相手が本気じゃなかったら別れると」
「軽いなぁ」
「でも恋愛ってそうやって経験値上げてって、よりいい女と付き合うってことでしょ」
「じゃあ、もし自分に一番合う女性に最初に出会ってしかもふられたら、おまえの理論ではどうなんの」
「ふられた時点で、それはもう一番じゃないし他を探す。大体一番合うなんてありえないから」
「なるほど。おまえの話聞いてたら、悩んでるのがバカバカしくなったよ」
「俺、役に立ったでしょ」
「ああ、すげえ役に立った」
小岩井はよつばに置き手紙をして、気晴らしに外へ出た。
公園では子供たちが遊んでいる。
「祥太、プロレスやろうぜ」
「やだよ。修ちゃん強いから、僕いつも負けちゃうもん」
「じゃあ負けないように、頑張ればいいじゃん」
「だってそんなに頑張れないよ」
「じゃあいつまでも泣いてろよ」
「やあ、こんにちは」
気がつくと坂田自転車店の店員から声をかけられていた。
よつばは彼を”ひげもじゃ”と呼んでいる。
「ああ、どうも」
どうやら考え事をしながら歩いている間に、ここまで来てしまったようである。
「今日はよつばちゃんは?」
「よつばは友達と遊んでてね」
見るとひげもじゃは、一生懸命自転車を磨いている。
「その自転車やけにピカピカだね」
「ああ、これ? うちの姪っ子が結婚するんでね。自転車欲しいって言ってたから、贈ってやろうかと思って」
「へえ、姪御さんいくつなの」
「それがねえ、高校出たての十八歳で、旦那が倍の三十六歳。旦那は姪の高校の教師なんだけど、姪の方がずっと好きだったらしくて」
「それじゃあ、ご両親が反対したんじゃない?」
「そりゃもう大反対だったけど、旦那が何回も足を運んでやっと認めてもらった次第でね。反対されても諦めなかったのが勝因てやつですか」
「旦那さん、その年の差でよく姪御さんと結婚しようと思ったねえ」
「年が近くてもこればっかりはうまく行くとは限らないからねぇ。未来のことなんか誰にもわからないし。まあ、それだけ好きだったんでしょう」
「なるほど。それじゃどうも」
「よつばちゃんによろしくー」
あてどもなく歩きながら、小岩井は考えた。
自分はいつの間にか風香に対して、恋人ではなく世の中の父親的な考え方をしていたのではないだろうか。
現在の風香を守れなかったため、未来の彼女を守ろうとして、彼女の気持ちを考慮しなかったのではないか。
いや、自分を守るために、風香を守ることを放棄したのだ。
自分が風香に告白した理由、すなわち、ただ純粋に風香が好きだという想いだけを持ってもう一度彼女に会いたいと、小岩井は思った。
小岩井はわからない未来について怯えるのをやめることにした。
自分ができないことで悩むよりも、自分にしかできないことを考えていこう。
少なくとも、風香を愛する気持ちだけは負ける気がしない。
もう遅いのかもしれないが、後悔しないようにあがいてみようと思った。
小岩井はまず風香だけに会って話をしたかったため、直接綾瀬家に行くのをためらった。
だが携帯に電話をしても、電源を切っているのか連絡が取れない。
風香の帰りを待っていたが、風香には会えなかった。
数日経っても状況は変わらない。
小岩井はいつまでも待つことにした。
風香が自分の電話を待っていたときも、こういう気持ちだったのだろうか。
改めて、彼女の気持ちを何も考えていなかったことに気づく。
小岩井は毎日夕方になると、窓をのぞいていた。
ある日、小岩井は隣街まで用事で出かけ、電車で帰ってきた。
すると同じ車両に制服姿の風香が一人で立っている。
「あっ」
二人で声を上げた。
小岩井は風香の隣に行き話しかける。
「元気?」
「うん。小岩井さんは?」
「俺は、あまり元気ないかな」
「え?」
「今日は学校帰りに買い物?」
「そう、友達と行ってきたの」
「風邪ひどかったみたいだけど大丈夫?」
「もう平気」
「最近帰り遅いの?」
「今学校の仕事をしてるから」
そして会話が途切れる。
すると後ろからヒソヒソ話が聞こえてくる。
「……紫陽花西高の制服……」
「……あのおっさん……」
小岩井は無視した。
「あの、私離れてますね」
風香がその場を離れようとすると、小岩井は彼女の腕をつかむ。
「風香ちゃん、ここにいてくれないか」
「でも私制服ですよ。いいんですか?」
「ごめん。あのときの俺はどうかしていた。お願いだから隣にいて欲しい」
「あ、はい」