あたたかい場所
あの日から、イタチは鬼鮫を悉く拒むような素振りを見せている。
任務以外の些細な会話さえも面倒だ、とでも言うように、鬼鮫の提案には、さっさと折れてしまう。
流石に、少しばかり踏み込みすぎたと鬼鮫自身も思っていた。
それは、イタチにとって自尊心を傷つけられる行為にも等しいことだとも理解しているつもりであった。だが、あの日は、そう思いながらも唇から零れる言葉を止められなかったのである。
ひっそりと心の中で血の涙を流すイタチ。
そのくせ甘えることもせずに、己の足だけで立とうとするイタチ。
何故そんなに孤高であろうとするのか、鬼鮫にはそれがもどかしい。
彼の事情をすべて理解しているわけではないが、仮にもツーマンセルのパートナーとして短くはない時を過ごしてきた。
鬼鮫自身、年若いパートナーに初めは戸惑いを隠せなかった。初見では、子供のお守りか、と内心溜め息を吐いたのも事実だ。
だが、鬼鮫の想像に反して、イタチは実年齢よりも遥かに大人びていた。“子ども”と侮っていたイタチは、年相応の甘えや弱さを見せることなく、常に凛としていた。
生まれついての天才は、まさに忍の中の忍としか言いようのない、完全無欠ともいわんばかりの存在だったのである。
まさか、その存在が本当は柔らかい心を持ち合わせているなどとは、鬼鮫は微塵も考えはしなかった。
鬼鮫が、そのことに気づいてしまったのは、本当にただの偶然だ。
それは月の綺麗な晩こと。
夜空にぽかんと浮かぶ満月を、どこか物哀しそうに眺めるイタチを鬼鮫は見た。
それが何を意味するのか、鬼鮫には皆目検討はつかなかったが、それでもイタチという忍として最上の心を持たない人形のような人間が、浸るだけの感傷を持ち合わせていたという事実は、鬼鮫を大層驚かせた。
何かあったのかと思い鬼鮫が声をかけるや否や、その雰囲気は霧散した。振り返った瞳は、常と変わらぬ何も映すことのない綺麗で冷たいガラス玉。
鬼鮫は、まるで夢かと思ってしまうような先の雰囲気が気になったが、イタチの雰囲気に呑まれ、そっと気づかぬ振りをしたのであった。
別段、そのことで迷惑がかからない以上は、冷たいようではあるが放っておくつもりだったからだ。
イタチのような手合いが、そうした馴れ合いを好むわけではなく、また、弱さをさらけ出すことを良しとしないことは明白だ。不用意に触れて、類い稀な才能を持った優秀なパートナーとの信頼関係を損なうことだけは避けたかった。
だが、そんな理由とは裏腹に、その頃から、鬼鮫の心は、少しずつもやもやとし始めた。
一体、何が彼の心を揺さぶるのか。
一体、何が彼を人たらしめるのか。
思えば思うほどに、今まで、気にも留めなかった些細なことに、イタチの感傷を感じた。
それは、日常の些細な仕草から、任務中の敵との戦闘にまで及び、鬼鮫は己がイタチに対して酷い思い違いをしていたことを痛感せざるを得なかった。
彼は、心のない人形ではなく、心を封じた人間なのだと。
しかし、結局は、何も問うことも出来ないまま、パートナーとしての生活は続いた。
その日々がこのまま同じように続いていくはずだったが、事情が変わった。
イタチが病に冒されていたのだ。一体、いつからかは鬼鮫にも解らない。鬼鮫がおかしいと思った時には、すでにイタチの病は深く根を張っていたことだけは確かだ。
イタチは、中々に上手に隠していた。
それにも関わらず、鬼鮫が気づいたのは、一重に彼がイタチを変な緊張を持って見ていたからである。
そうでなければ見落としてしまう程度の些細な変化に鬼鮫は気づいた。
問い詰めて、どうでも良さそうに詳らかにされた事実。
「鬱陶しい」
心底、呆れたように吐き捨てられた言葉を、鬼鮫は忘れることが出来ない。
その瞬間に、彼の胸に去来したのはどうしようもない“かなしさ”だった。
もやもやしていた心が一気に形を為す。
(あぁ……私は、この人が好きなんだ)
気づかないままに、惹かれていた。
その気高く美しく、それであるが故に酷く痛ましいその心に。
どんなに苦しくとも、一人で立ち続ける、その強さと儚さに。
気づいたからといって、言えるはずもなかった。
だが、これまでの通りに過ごすことも出来なくて、その哀しいまでの孤高を気遣えば気遣うほどに、彼の心は頑なに閉ざされた。
そして、先日のやりとりに至ったわけである。
「別段、惜しい命でもないだろう?」
あれは、紛れもないイタチの本音だろう、と鬼鮫は思う。
言い放ったときのイタチの沈んだ瞳は、生への執着を微塵も感じさせない虚ろな闇に満ちていた。