上主
酸素呼吸の生命体が芽生え、いくらかの自然淘汰が発生し、集落を作りはじめてしばらくしたころ。彼は、それらに奉仕種属とでも言うべき存在を与えた。試料(はこにわ)の中、自然淘汰()され姿を消そうとしていた生命体に手を加えたものだった。処女懐胎のような、ちいさな誘導でことはたりた。勝利者(それら)が自らのしもべを使いこなし、幾度かの浄化疫を越えたところで、自らの成果を本格的にまとめ発表したのだ。彼の試料(はこにわ)で、彼が注目する生命体は、かつての人間の歴史をはるかにしのぐ速度で知性と科学の輝きを手に入れつつあった。それが、奉仕種属の存在と、浄化疫によるものであることは明らかだ。生命の発生、知性の発生――そのための手入れどころか、知性の方向性をも操ろうというインタラプトは賛否両論で迎えられる。なるほどと頷くものもあれば、今の同僚のように、模倣(シミュレーション)ではなく作成だと眉を寄せるものもあった。
結局のところ、彼と同僚では、同じような試料(はこにわ)を用い観察しレポートをものにしているとはいっても、興味関心の場所が違いすぎるのだ。彼にとってのそれは芽生えた知性のかたちであり、同僚にとってのそれは知性芽生える存在の生体そのものなのだから。最終的に目指すものが同じであっても、それにつながるとめぼしをつけている手段が違いすぎる。
同僚にしてみれば、彼の行いは観察すべき白い花を色水に浸してみたようなものなのだろう。それによって引き起こされる色の変化は、その花を知るための作業ではなく、コサージュを作るための飾りつけにすぎない。彼がほしいのきっと花壇に植えた花なのだから。そう彼は結論付け、同僚との意見のすりあわせを諦めた。
実験室の中には、他にもいくつかの試料(はこにわ)へと通じる道がある。豊かな緑に溢れたそれもあれば、あとは滅ぶに任せるのみのものもある。汚らしいヘドロがわだかまるのみかとおもいきや、実はそれそのものが知性体であり、人間へと向かって必死に触手を伸ばそうとしているものもあった。まことしやかに囁かれる怪談の一つには、自らの身体を変化させ、試料(はこにわ)の先へと向かった研究者がいるというものもある。
いくつかは、身分証明書の冒頭数文字で特定されるような研究者が世話をしていた試料を若手が引き継いだもので、今もまた豊かな繁栄の姿をみせている。
だが。自らが作り出そうとしている宇宙種属の種子は、どの試料(はこにわ)の種属にも勝る。口にこそ出さないが、ただ静かに、彼は確信していた。
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親兄弟を含めた口さがない人間は、彼は勉強のしすぎでノイローゼになってしまったのだとためいきをついた。その中に、どこか揶揄と優越の響きを感じ取ったというのは、彼の病の典型的な症状の一つ――被害妄想というものだろう。
彼の職場は、基本的に場所と資材を貸し与えているといった様相で、細かく出勤退勤の時間や休日をチェックしたりはしていない。ノルマとなる成果をあげてさえいれば、日によっては無断欠勤すらもさして問題とはならないことすらある。だがそれでも、それなりのワークタイムに顔を見せず、レポートも発表しない、同僚の発表会に顔も出さないとなると話は別だ。勤怠管理というだけでなく、健康管理的な意味でも、指導の必要ありと判断されることとなる。
彼の勤務態度がおかしいと上司が腰を上げるには、一月ばかりの時間が必要であった。上司の報告により、保健管理部が彼の無事を確認したのち、産業医との面談が設定された。幾度かのカウンセリングの後、彼は傷病休暇へと入った。
自然のままにというのは、とても美しい言葉だが、けして正しいものではない。里山の自然というのが代表格だろうか。間引きし、下草を払い、それなりの手入れをして初めて、山は穏やかで実り豊かな自然()の姿を見せてくれる。家庭菜園にしたところで、種をまき、出た芽すべてをそのままにしておくだけでは、豊かな実りを得ることは難しいだろう。日照りが続けば水をかけてやり、適切な数へと新芽を減らし、肥料を加減し、望まぬ虫を退治する。そんな細やかな手入れがあって初めて、収穫時期に大きな喜びをもたらしてくれるのだ。
ろくな引継ぎもなされずに放置された彼の試料(はこにわ)は、少しずつ様相を変化させていった。いまさら、自然()環境が大きく変化することはない。良くも悪くも、未だそこに発生した生命体は、無邪気な自然破壊程度の技術しか持ち合わせていないのだ。石礫が試料(はこにわ)へと変化する過程で起こった変化――藻による大気の作成などにくらべれば、ほんの百数十人を養うための焼畑農法など、可愛らしいものである。
だがそれでも。細やかに制御された浄化疫が起こらなくなり、観察対象の生命体は畏怖を忘れた。エアコンと加湿器で保護されていたかのような天候は、うちわとジョウロ程度の手入れに退行する。基礎のない科学技術は、あっというまに秘儀(オカルト)と化し、担うことの出来る存在の数を減じた。その果てに待ち受けていたのは、彼が厭うたもの――無知蒙昧を煮しめた先に存在する神なるものの降臨であった。
奉仕種属は彼らの手を離れ、独自の生き方を模索し始める。土壌にあった肥料すら作れなくなってきたところに発生した浄化疫とは別の伝染病が、観察対象種属に致命的なダメージを与える。あと一息で宇宙種属へと進化しようとしていた生命体は、あっけないほど短期間で、知性と技術の階梯を転げ落ちた。
彼の試料(はこにわ)を引き継いだ人間を責めてはいけない。その人間は、少なくとも、自らの研究の傍ら、毎日残業代一時間程度の労力を注いでくれたのだ。彼のように、昼夜分かたず、寝食を忘れ、試料(はこにわ)に見入っていたわけではない。ただそれだけのことだ。
試料(はこにわ)は荒れていく。遠目に見る限りでは、大した変化はない。少しばかり、陸地の緑が濃くなった程度だろうか。
だが、そこはもはや、肥料と水をやりすぎて腐れた鉢植えと同じだった。株分けをし、適切な対応をとれば、次の年には艶やかな花を咲かせることもあるだろう。しかし、その労力をかけてくれるであろう人間は、産業医の診断書にはばまれ、実験室に戻るはかなわない。その彼とて、腐れたそれの手入れを行うよりも、新しく鉢植えを買ってくることを選ぶのではないだろうか?
実験室の一角で、彼の箱庭は、かつての研究員が残したそれと同様、みるかげもないものとなりつつあった。
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定められた期間内であれば、休職したことを理由に、職場を追われることはない。だが。さらに上の組織から手入れがあったとなれば話は別だ。組織部署合併の波の狭間、病気を理由とした休職状態にあった彼は、あっけなく職を失った。
すでに休職状態にあったのだから、片づけるべきものなどほとんどない。手続きはすべてネットワークを介して行うことができる。それでも、引き寄せられるように後始末という名目で職場――明日からはかつてのという接頭語がつくそこにやってきたのは、寝食を忘れ取り組んだ課題ゆえであろうか。
「光あれ」
言葉などなくとも、実験室に足を踏み入れれば明かりはつく。誰も聞くも者のない冗談(ジョーク)に、彼は自ら笑いを添えた。