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夢轍 [2] 変革、廻り出す音、雨と奈落4

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 イアンは頷き、敬礼する。カーツが捕えられている牢の警備をそれとなく緩くしておき、脱走した際は最低限の追手を差し向けてそのまま脱走させればよい。最も、あの男は自ら脱走するような性格ではない。脱走したとなれば改革派と接触する可能性は濃厚だろう。そうなれば、確かに都合が良かった。カーツ周辺を探らせておき、必要と在れば接触しても構わないだろう。なれば、諜報活動はイアンの本領でもある。所属は技術部だが、諜報部との繋がりは深い。そういう意味での総統直属でもあった。
「事が発覚次第、リジャールに関しては、隠蔽の罪で降格処分、陸軍主体の治安維持警察部隊の現場組みに配属でよい。ヤツは何か言うだろうが構わん。アンマルチア族との提携も果たした以上、あれはただの役立たずの無駄銭使いでしかない」
 言葉の裏にある、今以上の精査に励めと言う命令に、今度はオシプの方が息を呑み敬礼する番だ。イアンが諜報部と技術部を繋ぐ存在であるなら、オシプは技術部と軍部を繋ぐ存在だった。他にも何人かこういう「総統直属」の人間は存在し、だが必要でなければ例え同じ配属であっても、互いに顔などは知らない。オシプとイアンが良く顔を合わせるのは、技術部と軍部、そして諜報部が連携を密にせねばならない状況だからに他ならなかった。
 そしてオイゲンは、これで話は終わりだと言わんばかりに二人の男に例の強い視線を向け、背を向けた。
 イワンはその背に、確認すべきもう一つの事柄に関しての総統の返答を見た気がして、沈黙する。その肩をオシプが軽く叩いた。

 総統の一人娘ロベリアが、改革派に傾倒している――恐らくは、接触している。言うべきか言わざるべきか、イアンは迷い続けていた。総統がどこまでを知っているのかもわからない。だが、それに関しては二人父娘の問題でもあり、他人が簡単に入り込めるようなものでもない。
 そういう迷いを、オシプも同様に持っている。彼はまだ良い、と言うように頷く。だから、イアンも今回はとりあえず報告を見送ることにした。話は、終わったのだ。



 工場区画よりも更に下層というのは、カーツも初めてであった。無論、普通ならば縁はない場所だ。政治犯やスパイ、そういった重罪人が手かせ足かせを嵌められて単純労働を強いられる場所――政府塔地下十二階の更に下層は、そういう場所だった。人為的な、囚人らの単純労働により生み出された熱が煇術開発部の技術をして煇石に閉じ込められ、それが枯渇しかかっている火の煇石の変わりに数少ない燃料たりえている。そこまでせねばならぬほどの困窮なのだということを、カーツは身をもって体験していた。
 一日の三分の二をその労働にあてられ、残りはなけなしの食事と睡眠だ。それでも睡眠が許されているだけ、カーツはまだマシな方なのだ。中には睡眠をとることも許されぬ囚人もいる――その殆どが捕えられたスパイや戦争捕虜であった。フェンデル人であるというだけで、カーツは優遇されている。
 地下深くなればなるほど、この国の大地は寒さを増す。本来は火の原素が多く含まれていた土地であったのだろうが、大煇石の影響で火の原素は根こそぎ奪われていた。結果、地下深く潜った所で寒さは凌げるどころか一層強まるばかりである。まして、この地下収容所に暖房などはない。睡眠時に使用する使い捨ての燃料がその都度渡されるだけだった。囚人をただ捕え放置せずにぎりぎり生かすというこのフェンデル帝国独特のやり方は、だが囚人当人にとってはありがたいのかそうでないのかは、判断に迷う所だ。心に生の執着が十分ある若者なれば、ありがたかろう。だがカーツの中に、生憎とそのような感情は生まれてはいない。元々あったのかなかったかですらも、よくわからない。
 数多くの疑念を抱きながらも、それでも従っていた上層部に裏切られたという絶望は、カーツの中の思考らしい思考を枯らし尽くすには十分すぎた。怒りというような強い感情も最早沸かない。裏切られたという思いもあまり抱いては居なかった。むしろどこかで納得もしている。自分のやり方を、結局は上層部が認めなかったのだ。上層部、自分達の支配者は総統閣下ではなくあのリジャールという男だということを、思い知れば絶望すらもしなかった。
 このような場所で定められた働きをした後に釈放されたとて、以前の場所に戻れるのだろうか。そういう懸念すら、今のカーツには抱けない。
 全てに疲れきっていたカーツは、ただ、眠りたいと思った。全身を支配する諦観と重だるさから一瞬でも解放されたい。茫漠と、だが切にそう願うだけだった。

 自分の濡れ衣が実際には重いのか軽いのかもわからない。ただ、戦争捕虜なども捕えられているからか警備は厳重だと思えた。このような過酷な環境と最低必要限度の糧のみを与えられ分刻みで仕事を決められていて、それでも尚脱走の気概があるものがいるのだろうかとカーツなどは考えるのだが、皆無ではないようだ。夜中に時折争う声が遠く聞こえることもあった。だがそれも所詮は他人事、変わるといえばせいぜい看守の機嫌がやや悪くなり、朝の前口上がわずかばかり伸びる程度だ。
 そう、あくまでもそんな話は他人事で、まさか己の身に及ぶことなどはあるまい。全くといっていいほど潔い諦観の念からなのか、カーツはそう信じ込んでいたのだ。



 だが、転機は唐突に訪れる。
人生の歯車が音を立てて回り始めるその瞬間なれば、それなりの前触れと言うものがあろう――ベラニックを出ることを決意した日、或いはこうして政府塔最下層で辛酸を舐めさせられるに至った朝。
 が、今回に限っては全くその気配を感じさせることなく運命の日はカーツのすぐ背後まで迫っていたのだ。

「成る程、囚人は決して殺さず生かす……らしいやり方じゃないか。どうだ、総統のやり方は気に入ったか」

 始めは、疲労のあまりの夢うつつであろうとカーツは思った。まさかこのような場所で友人の声が聞こえるわけが無い。まして、その姿が視界に入るわけがなかった。だから、ひどく懐かしさを心の片隅に思わせる声が聞こえたときも、カーツはその髭が伸びきった顔を上げる気すらなかった。
「おい、死んでいるわけではあるまい、カーツ・ベッセル技術少尉どの」
 揶揄する口調、聞き違えるわけがない。二度目である、流石にカーツはうっそりと顔を上げざるを得なかった。果たしてそこにある顔は、見慣れた「人誑し」の笑顔である。
「……マリク、か?……何をしている」
「それはこっちの台詞だ、カーツ。とっととこんなところはずらかるぞ」
 マリクは事も無げに房の鍵を開けてしまい堂々と入り込んでくる始末だ。一体この男は何をしでかしている。己の身に起きたことであるにも関わらず、あまりにも急速であるからか、カーツは目の前で起きている出来事を実感出来ないでいた。
「おいおい、まさかここで刑期通りお勤めを果たす気じゃああるまいな」
「何をしに、いや、…何故」