ビター・トゥルー
顔を上げたエレンは慌てて顔をこすり、吹き抜けになっている通路の欄干に肘をついて見下ろしているハリードの黒い顔を見上げた。
「ずっと探してたんだよ」
さっきの事を悟られるわけにはいかないと、あえて普段の口調で言ったのだが、
「話したのか? 元ゲッシアの民と」
という言葉を聞いて、あ然と口を開いた。
「……知ってたの?」
ああ、とうなずき、ハリードは視線をそらせながら肘をついた手の上に顎を乗せた。
「入ってすぐに、おれの姿を見て隠れた奴がいた。他にもいるみたいだな」
「……そう」
立ちすくんだまま、エレンはため息と共にうなずく。ハリードの厳しい横顔がかすかに崩れた。
「こういう場合は、幸せに暮らしてくれているようでよかった、と言うべきか?」
あえて明るいその口調を聞いてエレンは目を閉じた。
だから、ハリードはティベリウスを許したのかも知れない。
祖国のために戦うという大義名分を失ってしまった以上、復讐という責務から解放された虚無感は、決定的な敗北を表す。
死んでしまった主君の敵討ちより、生きている民の生活を重んじることを選んだ元王族の姿は、あまりにも寂しげだった。
「なんか言ってたか? あいつらはおまえに」
ここからエレンたちの会話を見ていたのかも知れないが、真実を言うのは残酷なように思えてエレンは別の話題を思い出そうとした。
「ううん、別に……。あたしをファティーマ姫だと見間違えたみたい……」
しまった、と思った時は遅く、すでに言葉は口から出てしまっており、ハリードは欄干から手を離して激しく咳き込んだ。
「あ、ごめん、今のなし。忘れて」
ハリードの前で姫の名前を口に出すことは気を使ってさけていたのだが、傷口を避けるあまり、まともに致命傷に触れてしまったのだ。
ファティーマ姫に似ているかも知れないということは、しこりとなってエレンの心に圧し掛かっていたのだ。口が滑ってしまうということは、そういうことだろう。
これまでファティーマ姫を意識していなかったといえば嘘になる。だがそれは、張り合おうなどという攻撃的なものではなく、今もなお愛し続けて探し出そうとしているハリードへの同情の方が大きかった。
だがハリードが、エレンが姫の面影を持つから『一緒に来い』と誘い、エレンの顔を見るたびその都度、姫のことを思い出していたのならば、これまでのことが、なんだかむなしく思えた。
もし、もっと早くにそのことを知っていれば、村の若者たちから好意を持たれていると聞いた時のように、あたしのような顔が好きなのかな、と、他人事のように受け流せただろう。普段は偉そうにしているこの男になら、鼻を明かすような得意な気持ちにさえなったかも知れない。
だがもう、そう思える期間は過ぎてしまっていた。
ハリードはエレンを必要としているから一緒にいるのではなく、ただ、似ているから一緒にいるだけかも知れないと思うことは、エレンの自尊心を傷つけるに十分だった。
でも、とエレンは暗い気持ちで思った。
もし早く知っていたなら、こんな風に激しい動揺はなかったかも知れないが、それはそれで、どんどん苦しく、切なくなっていっただけかも知れない。
「ごめん」
階段を上がってハリードのそばに駆け寄り、背中をこすりながら、エレンは苦い気持ちでいっぱいだった。
しばらく咳き込んだ後、ハリードは目じりの涙を拭いながら小さく言った。
「似てない」
聞き取れず、エレンは慌ててハリードの顔を覗き込む。
「え? なに? 水?」
ハリードは苦笑して、もう一度言った。
「違う。似てないと言ったんだ」
「え?」
ハリードはエレンの目を見つめながら息を整え、ゆっくりと言った。
「全然、似ていない。おれにとっておまえはおまえで、誰の代わりでもない」
ハリードの顔を見つめたまま、エレンは動けない。
「……世界でたった一人のおまえだ」
エレンは、ぽかんとハリードの顔を見つめ返すだけだった。
世界でたった一人のおまえ、という言葉はエレンを一人の人間として見ているという意味だ。たとえ、似てないという言葉が『おれの大事な人とこんな奴とを一緒にできるか』という意味合いだとしても、身代わりにされているよりずっとよかった。
(あたしは、あたしのままでいいんだよね?)
泣き出しそうになるほどの喜びをごまかすために、エレンは勢いよくハリードの背中を叩いた。
「どうでもいいけどね、おまえ、おまえって何回も偉そうに言わないでくれる?」
再び激しく咳き込んだハリードは、上目使いにエレンをにらみつけた。
「おまえな……」
「さ、行こう。カタリナさんたちが待ってるかも知れない」
立ち上がりながら、しれっと付け加える。
「ちなみにあたしは、どうやって戻ればいいか分からないけど」
あきれたようにハリードはエレンを見上げた。
「よくそれで、一人で探しに来たな。その階段を下りて廊下沿いに行けばさっきの部屋だろうが」
「そうだったっけ?」
「おまえといると、悩みも長続きしないよ」
ぐったりと立ち上がりながら小さくつぶやくハリードに、さっさと歩き出したエレンはそっけない口調で言った。
「あのさ、なにがあっても、あたしはずっとあんたを信じ続けるからね」
「……なんのことだ?」
エレンは小さな笑みを浮かべだけで、それには答えなかった。
だがもし、その時ハリードを振り返っていれば、エレンの背中を、そして高い窓から覗く、失われた故郷の空を見つめるハリードの苦い表情が見えたはずだった。
──終──