ハリー・ゴー・ラウンド②
受け取った二枚の地図の一枚を丁寧に折り畳み、迷う事無くポケットに仕舞った。
それは当然必要の無いものだと、プリーストには解っていたから。知っていたから。
辿り着いた目的地は、街のあちこちで見掛けられる長期滞在者用の安価な宿。
見慣れない来訪者に気付き、絨毯を掃いていた主人が慌ててカウンターに入る。
プリーストがブラックスミスの名を告げると、主人は眉を寄せ階段の上を指差した。
心配そうに二階を見上げる主人に見送られ、プリーストは軋む階段を上った。
地図に書かれた部屋番号とノブに掛かる名前を見比べ、軽くノックする。
暫く待っても返答は無く、再度少し強めに戸を叩きドア越しに彼に呼びかけた。
「ヴィヴィアンさん、ヴィヴィアンさん、私です、あの・・・」
そういえば名乗っていなかった、とプリーストはその時ようやく気付き口を噤む。
「あの・・・この間のプリーストです。ヴィヴィアンさん、いらっしゃいますか?」
適当な文句を取り繕い、宙で止まっていた手を降ろす。
郊外の宿の静けさが、ノック音の余韻の残る耳に痛い。
彼の泣き顔、彼の泣き声、人二人の生々しい生、思い出して遠くを睨む。
自分と彼とを隔絶する戸に、一秒毎に不安が募る。
プリーストは戸に耳を寄せ、息を潜めて音を探した。
小さな小さな物音がやがてはっきりとした足音になり、扉の前でぴたりと止まる。
錠を外す金属音にプリーストは慌ててドアから飛び退き、姿勢を正し表情を取り繕った。
静かに開かれたドアの隙間、ひょっこり頭を出した黒い帽子。
骨ばった手がまるで隠れる様にその天辺を押さえつけ、彼の視線を拒絶している。
僅かな隙間から窺い知れたのは、伸び放題の赤い髭と、皮膚の剥れた、乾いた口唇。
見られたくないのだ、と察しがついた。
「急に押しかけてしまってすみません。貴方のご友人の方が、貴方を暫く見ていないとおっしゃるもので。」
すぐに視線を逃がし、プリーストは努めて普段通りに振舞う。
彼を気遣い、そして自身を保つ為に。
ブラックスミスは彼の肩越しに廊下を見渡し、彼が一人だと解るともう少しだけノブを押し、人一人分の通れるスペースを作ってやった。
どうぞ、と短く小さな、久方振りに聞いた彼の声。
長い間声を発していないか、その逆か、そんな声の色だった。
プリーストが戸をくぐったのを見届け、彼はくるりと背を向ける。
「すいません・・・こんなカッコで。」
危うい足取りで前を歩き、プリーストを奥へと招き入れる。
「とんでもないです、こちらこそ急に押しかけてしまって。」
プリーストは背を向ける彼の、鮮やかな赤い髪とシャツの皺を見詰めていた。
狭い流し台を横目に、奥のリビングらしき空間に案内される。
低いテーブルと二つの小さなソファ、その隣には布団が捲れあがったベッド。
プリーストが起き抜けそのままのベッドに気付くと、彼は慌てて布団を被せよれたシーツと枕を隠した。
「そっちの大きい方のソファ使っちゃって下さい。俺ベッドありますから。」
それだけ言うと彼はそそくさと台所に戻っていく。
プリーストは二つのソファを前に暫し迷い、彼に言われた通り二人掛けのソファに腰を降ろした。
カチャカチャと陶器と金属の立てる軽快な音を背後に聞きながら、部屋の中を見渡す。
明るい色彩は壁紙だけで、ソファもテーブルクロスもカーテンも棚のブラインドも単調に統一されている。
暗いモノトーンの部屋の中、ペンなどの小物の赤がいやに目に付いた。
「すいません、コーヒーしか置いてなくて。」
黒いカップを手に、帽子を被ったままの家主が彼を呼ぶ。
ブラックスミスの手元からテーブルへ、ふわりと香ばしいコーヒーの香りが白い線になりやがて消える。
「有難うございます。」
礼と共に見上げると、ブラックスミスは帽子を押さえ顔を背けた。
「あの、すいません・・・、ちょっと、風呂に。」
それだけ言うと、プリーストの返答を待たず壁に掛けてあったシャツを毟り取り慌ててバスルームへ駆け込んだ。
やがて背に聞こえてきた水音に、プリーストは肩の力を抜いた。
狩りに疲れて寝ているだけだと、地図をくれたブラックスミス達に声を送る。
嘘を吐いた。
「心配してましたよ、この間のブラックスミスさん方。」
黒いカップを手に固まるブラックスミスの横顔に、プリーストが話し掛ける。
バスルームから出てきた彼は流石に帽子を被ってはいない。
が、代わりに大きなバスタオルを頭から被り、執拗に顔を隠していた。
「何だかんだ言ってもカレラィは・・・リーダーみたいなもんですから。」
「貴方の事もですよ。」
力無く呟く彼に、即座に、はっきりと、プリーストは付け足した。
出会ったばかりだというのに、彼はこんなにも優しいと、カップを持つ指先が痺れる。
じわりと瞼が熱くなり、ブラックスミスはぐっと口唇を噛んだ。
「おっしゃってないんですね。」
表情をひた隠す真白いタオルをじっと見詰め、プリーストが話を切り出す。
突き刺さる様な真っ直ぐな視線を感じ、ブラックスミスの体が緊張に揺れた。
彼の赤い髪の先から、丸く玉になった水滴がぽたりと落ちる。
「おばさ・・・あいつの母親には、伝えました。ヘアピンと、サングラス渡して・・・ナイフは、俺が持っててくれって。」
思い出して、ブラックスミスは頭を垂れた。
彼の丸まった背が、目に見えて震え始める。
「他にご家族の方は?」
目の前の冷えた黒いカップに視線を戻し、プリーストは淡々と言葉を続ける。
一度だけ聞こえた鼻をすする音が、静かな部屋にやけに響いて耳に残った。
「あいつの母親とその両親です。兄弟もいないし親父は離婚したし、後は・・・俺だけです。」
彼の言葉にプリーストは顔を上げ、白いタオルの横顔を振り返った。
「貴方が?」
「従兄弟です。」
ああ、と短く声を上げ、プリーストが頷く。
「他には?」
「後は、俺もカレラィも知らないです。」
プリーストは暫く黙ってテーブルを見詰め、やがて眉を寄せ首を傾げた。
「貴方の方のご家族は?」
コツン、と硬い音を立て、黒いカップがテーブルに置かれる。
「死にました。」
真白いタオルで顔を覆い、ブラックスミスは上を向いてまた鼻をすすった。
プリーストが俯き、すみませんとぼそりと呟く。
「あいつの母さん見てたら、どうしてカレラィなんだろうって。俺なら元々一人だったのに。」
頭に乗せたタオルを震える指で握り締め、口に押し付ける。
布を通して聞こえる、か細い嗚咽と鼻をすする音。
自分とさほど歳の変わらない男が、こうも人前で泣くとは一体どれ程強い感情だろうと。
考えて、心臓の鼓動が針の様な痛みに変わりプリーストは顔を顰める。
「今じゃ親友って言える奴もいる、家族って呼べる人もいる。世の中上手くいかないもんですね。」
自暴自棄とも取れる、自身の境遇を嘲笑う言葉。
それでもまだ何か言おうと声を飲む彼の頭を、プリーストは被っているタオルごと抱き寄せた。
そうする事しか、彼には思いつかなかった。
作品名:ハリー・ゴー・ラウンド② 作家名:335