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刀語 第四話 薄刀『針』再現

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 苦痛の悲鳴を上げたのは七花だった。完全ではない形で繰り出した奥義。そのツケとばかりに全身の筋肉がぎしぎしと絶叫する。確かに、『雛罌粟』から『鈴蘭』への派生は存在するが、今回はあまりに時間がなさすぎた。だが、その痛みにひるんでいる暇はない。錆白兵は『爆縮地』による後退を行い、すでにはるか彼方、遠方に逃れていた。間合いを無視することのできる彼にとって、遠距離はまさに独壇場である。
(距離を――つめろっ!)
 未だ痛みの残る体に鞭を打ちながら、錆の元へと駆け出す。近距離戦――インファイトにおいてしか、この戦いに勝機はない!
「『速遅剣』――五連」
 遠方より五つの斬撃が飛来する。無論、その一撃一撃が勝負を決するに十分な威力を秘めていることは言うまでもない。その斬撃を、紙一重とまではいかなくともある程度の余裕をもってかわしていく七花。『速遅剣』があくまで刀の「間合い」を操る術であったのが幸いした。錆白兵の右手に注目していれば遠距離であるならかわしきれないことはない。刀と相対するために生まれた剣術「虚刀流」においては弓などの飛び道具よりも戦いやすいというものだった。
 一定の距離を保ちながら『速遅剣』による斬撃を打ち続ける戦法へとシフトした錆白兵。シンプルではあるが有効極まりない手だ。
その幾多もの斬撃を避けつつ、七花は考える。
(俺はさっき、何をされた……?)
 虚刀流『雛罌粟』。当たるはずだった七花の手刀は、何故か錆白兵を逸れていった。『爆縮地』とはまた違う歩方か何かによって紙一重でかわされたのだろうか――
(違う! あれはそんな問題じゃあなかった。俺は、最初から錆のいないところへと手刀を放っていた。いや、放たされていた!)
 先刻のとがめとの会話を思い出す。あの『菖蒲』もきっと同じように錆のいないところへと放たれていたのだろう。妙な動きに見えたのも納得だ。だが、敵の動きに干渉するだなんてそんな催眠じみたことを、はたして生粋の剣士である錆にできるものだろうか……。
「訝しげな顔をしているでござるな。虚刀流」
 そう言いながら錆白兵は、七花から十間ほどの距離で立ち止まり刀を鞘へとしまった。
「……随分と余裕だな。まだ、お前の太刀は俺にかすってすらいないんだぜ?」
 無論、強がりだ。突破口の糸口すら七花にはまだ検討もつかない。このまま持久戦にもちこまれれば、大振りな動きで攻撃をかわし続けている七花が圧倒的に不利なのは誰の目にも明らかだった。
「何、延々といたちごっこを続けるのも趣味ではないのでな……。先ほどの攻防に疑問を感じているようでござるが、そう難しく考える必要は何もないでござるよ。あれはただ単純に、拙者と貴行の実力の差でござる」
「実力の――差?」
「一つ、例を見せてやろう」
 錆白兵はそう言うと、鞘にしまった刀に手をかけ、腰を低く落とした。居合いの構え、である。
「今から拙者は居合いにて貴行を迎撃する。『速遅剣』も『爆縮地』も用いぬ。ただの居合い、ただの斬撃でござる」
 挑発。それもあからさまな。
 遠距離での攻撃手段を持つ錆にとって、わざわざ相手を接近させる理由はない。
 舐められて――いるのだ。
 しかし、七花にはこの挑発に乗る以外の選択がない。
 錆白兵のような遠距離の攻撃手段を持ち合わせていない七花には、どの道近づくしか勝利の手段はないのだ。
 何より、ここまで言われて闘志を燃やさぬほど、彼は鈍感ではなかった。
「虚刀流七の構え『杜若』」
 この戦いにおいて幾度か駆使してきた型『杜若』。あまりに早すぎる錆の剣閃に反応するための応用的な使用だったが、今回は違う。
 相手の居合いが速ければ速いほど成功率が増すという、この型の本領発揮のときである。
「位置について、ようい――」
 ざり、と足と地面の擦れる音が聞こえる。地面の運動エネルギーを足に溜め込み、支えの手でそれを押しとどめる。発達した大腿筋の生み出す膨大な力が臨界点を迎えたその時――
「ドン!」
 七花の体によって空気の壁が突き破られる音が、衝撃が、遠くで観戦していたとがめの元にまで届く。
 ここまでの加速を実現しながら、その前後自在な足運びは、その速度の加減をいとも容易く行う。人類の生み出しうる最大の速度差に、人は七花の残像すら見るのだ。
 そして相手が達人であればあるほど。居合いの速度が速ければ速いほど。
 その残像に敏感に反応し、切り裂いてしまう。
 まさに居合いの迎撃のために生を受けた技。
 音を追い越し、空気を裂きながら、錆へと突進していく七花。
 その七花の身を、驚愕が貫いた。
(――遅い!?)
 遅い。遅すぎる。錆の抜刀の速度が、である。
 無論、常人と比べれば、その居合いの速度は速いほうと言えるだろう。
 だが、先々月相対した宇練銀閣。いや、そこまでいかなくとも一般的に居合いの達人と呼ばれる剣士たち。彼らと比べればその速度は雲泥の差。異常発達した七花の動体視力には止まって見えるほどだった。
 だが――だが!

(あ――くらう)

 七花は、その居合いの命中を確信した。
 自らの胴が、真っ二つに両断され、内臓をぶちまける未来を想像した。
 そしてその後に訪れるそれを――決して避けることのできないあれを――

 死を――覚悟した。

 七花の視界は、漆黒に包まれた。


 目を覆う暗闇が晴れたその次に、七花の目に飛び込んできたのは青空だった。
 一体何が起きたのか。理解がまるで追いつかない。
 いや、理解することができない。
 何故なら彼の身には今、夥しいまでの震えが走っていたからである。
 体は冷たく、動悸が治まらない。胸が張り裂け、喉がひりつく。思考は停止し、脳が働きを拒否している。ただ、胸中の殆どを占めるとある感情によって。
 緊張などとは比類すべくもないその感情は――恐怖。
(あ、あ――)
 全身に走る悪寒に竦みあがりながら、七花は回想する。
「刀」として生を受け、研鑽と鍛錬のもとに技を磨いてきたその日々。
 今までの強敵との戦いも、どこか冷めた視線でみてきた自分がいたような気がする。
 父から受け継いだ虚刀流の方程式に、ただ相手をあてはめるだけ。
 それだけで、勝手に勝利は訪れる。
 ただ、当たり前のこと。
 死ぬなどと。
 戦いに敗れ死ぬなどと、今まで自分は考えたことすらなかったのだ。
 覚悟はできている。そう思っていた。刀として、剣士として、死ぬこともいとわないと。戦いに身を置く者として弁えていると思っていた。
 それなのに。
 嗚呼――恐ろしい。
 死ぬことが――恐ろしい。
 呆然と見続けていた青空が、突如背景と化す。
 自分と空の間に、遮蔽物ができたことを、脳の片隅でぼんやりと把握する。
「これが、拙者と貴行との、実力の差にござる」
 錆白兵が俺を見下ろしていた。
 そこまできて、ようやく自分が地下へと、陥没した地面へと落ちていたことを理解する。
 元々地下に空洞があって、先ほどの攻防で地盤が緩んでいたのだろう。
この陥没がなければ――この偶然がなければ――自分は死んでいた。