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刀語 第四話 薄刀『針』再現

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「先刻の差し合いも、貴行は拙者が何やら戦術を弄したと思っていたのであろうが……なんのことはない。拙者はただ、貴行の攻撃が届かないところへ、あらかじめ移動していただけのことでござる」
 経験。
 二人の実力に圧倒的にまでに差をつけた要因は、まさしくそれである。
 剣客として生きてきたこの十数年間、錆白兵が斬ってきた人の数は、それこそ星の数ほどである。
 この前まで無人島で、仮想敵を相手に修行を続けてきた七花とは、経験の量が違う。
 だから分かる。
 相手がどう攻めてくるのか。相手がどう避けるのか。相手がどう飛ぶのか。相手がどう見切るのか。相手がどう逃げるのか。相手がどう切り込むのか。相手がどう考えるのか。相手がどう守るのか。
 全て自明の理とばかりに――分かるのである。
「あの居合いもただの居合いでござるよ。ただ刀を抜いて、斬りつけ、しまっただけ。ただそこにあいての行動への対応を含ませただけにござる。拙者と戦った相手はどうもこの摂理が分からぬようでな……何故か当たらぬその見切りを『刃取り』。何故か避けれぬその居合いを『一揆刀銭』と勝手に呼ぶほどでござる。拙者にとっては極々普通の居合いと回避であるのに、な」
 淡々と、黙々と、まるで人形のように。
 先刻の、今までの戦いを解説する錆白兵。
 その目には最早感情は宿っておらず。開戦の折に見せた闘志は奥底に鳴りを潜めていた。
 まるで無機物を見るかのようなその目を見て、七花は悟る。
 俺は――相手を、錆白兵を、失望させたのだ。
 情けないと思った。不甲斐ないと思った。
 とがめに――自分を信頼してくれた主に申し訳ないと思った。申し訳がつかないと思った。
 自分に闘志を燃やした錆白兵に、自分と対峙した日本最強に顔向けができなかった。
(――そう思うなら早く立ち上がれよ!)
 まだ戦いは終わっていない。さあ、はやく立ち上がれ。こんなところでぼんやりしている暇があるならば、とっととこの空洞を飛び出して、錆と相対すればいいだろう。
 向かって、構えて、仕切りなおして。
「戦いはこれからだ!」とでも言ってやればいいだろう!
 なのに、一向に体は動いてくれない。
 震えはただ増すばかり。体に力を入れても、脳に喝を入れても、決して収まってくれない。
 そんな自分を錆白兵は見ている。ただ――見つめている。
 冷たい目で! 失望の目で! 落胆の目で!
それ以上まともに顔を見れず――俺は――
 頭を、垂れた。

「……腑抜けを斬る趣味はない。立ち上がらぬなら、何時までもそこで朽ちているが良いにござる」
 つめたいこえ。恐怖に曇った刀に、最早興味はないのだろう。
 敵に情けをかけられた。そのことに対する憤りすら、今の七花には感じることができないのだった。
 ザッ、ザッ、ザッ。
 硬質な足音が、遠ざかっていく。
 最強の剣術など、今までどの口が謳っていたのか。
 完成型変体刀を収集しきるなどと、どの口が謳っていたのか。
 恥ずかしい。今までの自らの思い上がりが、この上なく恥ずかしい。
 もう、このまま眠ってしまおうか。
 そうだ。とがめに無理矢理決められるまで、自分の口癖はそうだったではないか。
 面倒だ――と。
 面倒だ。何もかも面倒だ。
 敗北にまみれ、虚無感に浸り、魂を腐らせるままに、眠ってしまおう。
 全てを諦め、目を閉じてしまおうとしたその刹那――とある音が空洞内に鳴り響く。

 ザッ、ザッ、ザッ。
 足音、である。錆白兵が戻ってきたのだろうか。やはり、かような腑抜けは存命に値しないとばかりにとどめをさしに来たのだろうか。
 それもいい。そう思った。
 腐り果てて、朽ちていくのを待つよりも。いっそすっぱりと叩き折ってくれたほうが刀としては幸せというものだろう。
 だが、何かおかしい。錆の足音にしてはいささか軽いような――いくら彼が剣客としては華奢だとは言え、これではまるで女子供のような――
「……とがめ」
 俺の主人。
 尾張幕府家鳴将軍家直轄預奉所軍所総監督にして稀代の奇策士、とがめが俺を見ていた。
「…………」
 とがめは、何も言わない。
 敗北を選んだことに対する叱咤も、再び立ち上がるようにとの命令も、俺を癒す慰めも、奮起させる激励も、何も言わない。
 震える俺を見ても、恐怖に退いたこの腑抜けを見ても。
 ただいつもの、意志の篭った強い瞳で俺を見るだけだ。
 ――そうだよな。
 いつもお前はそうだった。
 風が吹けば倒れてしまうようなそんな体で。
 刀一つ振るえないようなそんな腕で。
 歩き続ければすぐに根を上げるようなそんな足で。
 弱弱しいその五体で――いかなるときも強く生きている。
何時だって自信に溢れていて、自身に忠実で。
 俺を、引っ張っていってくれるんだ。
 あの狭い島で、自身もその可能性も閉じ込めていた俺に、外の世界を教えてくれたんだ。
 そう、だからだ。だからこそだ。
 だから――
「――だから俺は、あんたに惚れたんだ」
 舟の上で授けられた、とがめの秘策を思い出す。
 追い詰めに追い詰められたときこそ使っていいと言われたあの奇策。
 まさしく今こそがそのときではないか。

「虚刀流奥義――」


 
 錆白兵の胸中を、失望と落胆が支配していた。
 四季崎記紀の忘れ形見が、よもやあそこまで期待はずれだとは。
 経験不足なのもいなめないが――何より彼は戦士として、剣士として不適格すぎる。
 あの感情の未発達ぶり。まるで稚児ではないか。
 挫折を知らず、奮起を知らず、恐怖を知らず、克己を知らず。
 あれは人ではない。人型に剣術を押し込んだ、只の人形だ。
 人ならざるものに、人は斬れない。
 あれはもう――終わりだ。
 折れた刀は、二度と立ち上がることはない。
「錆にまみれて、朽ちていくがいい。虚刀流。……拙者のように」
 
「そいつはせっかちってもんだぜ――日本最強!」
「!」
 振り返るその先に、彼はいた。
 虚刀流七代目当主、鑢七花!
 洞穴から這い出てきたのだろう。未だ濡れたままの袴に土くれがこびりついている。
 彼との距離は八間ほどであろうか。
 それでも、彼の恐怖はいとも容易く見て取れる。
 足は震え、動悸は落ち着いていない様子だ。荒い息遣いがこちらにまで伝わってくる。
 それでも、たとえ恐怖に曇っていても、絶望に蝕まれていても――それでも!
「まだ折れてはいないでござるか――ならば、直々に引導を渡して進ぜよう」
「やって――みろ!」
 風を震わせながら、虚勢と思われる言葉を吐きながら、虚刀流はこちらに突進してくる。未だ先刻の恐怖が抜けきらないのだろう。数段踏み込みの勢いが落ちている。
 抜刀、構え。もう幾千幾万幾億と繰り返してきた動作だ。そこにはいつも通りに淀みなど欠片もなく。こちらに向かって駆けてくる虚刀流を、ただ迎え討つ。
「虚刀流『薔薇』!」
 最早通じないと悟ったのだろう、先刻から多用している『杜若』とやらは使用しなかった。ただの、なんの変哲もない飛び蹴りだ。こんなもの、いつも通りにやればなんのことはない。
 避けて、斬る。剣を握って十数年間、それだけをやってきた。