ブロークン・ウイング
足音を耳にし、シャールは薄目を開けた。大量に血を失ったための寒さと右腕の激痛で体力も限界にきており、顔を上げることさえおっくうであった。
どれほどの時間が経ったのか、牢は暗闇に包まれ、一定の間隔を開けて置かれた壁の蝋燭が弱々しい光で揺らめいている。足音は再びシャールの檻の前で止まり、がちゃりと鍵が開けられた。
わずかに顔を上げたシャールは、二人の兵士を見て覚悟を決めた。
(クレメンス様、ミューズ様……申し訳ありません)
心の中で主君に詫びるとシャールは力を振り絞り、暗がりの中を無言で近づいてくる死刑執行人に向かって開き直るように言い放つ。
「いよいよ私を殺しにきたか」
だが二人の兵士はシャールに近寄ると小声でささやいた。
「お静かに」
そうして素早い動きで、手首の枷に腕を伸ばす。もう一人が驚くシャールの右腕に手早く薬のような物を塗り、包帯代わりの布を巻きつけ始めた。
「しみますが、我慢してください」
強く腕を縛る兵士の顔を間近で見たシャールは、その顔に見覚えがあることに気付いた。王宮を守る若い衛兵であり、クレメンスに付き従って登殿していたシャールは何度か顔を合わせたことがあった。
寡黙な青年で、「暑くて大変だな」などとシャールがねぎらいの言葉をかけても、黙ったままはにかむように小さく微笑むだけだったと記憶している。その間に両手両足の枷を外した兵士の方は見覚えがないが、同じ衛兵の鎧を着けている。
枷を外した方の衛兵が言った。
「私たちが先導いたしますから、ここからお逃げ下さい」
シャールは驚いた。いくらこの衛兵たちにシャールを助ける気があったとしても、策謀に長けたルートヴィッヒから逃げられるはずなどないと思ったのだ。ルートヴィッヒがどれだけ恐ろしい男かということは、先の戦いで思い知らされている。
しかし、この機会を逃せば遅かれ早かれルートヴィッヒはシャールを殺すであろう。すぐに殺さないのは、英雄のようにピドナの民から崇められているシャールを殺すことは、王都鎮圧を遅らせることになるという判断ゆえに違いない。
「この厳重な監視下から逃げることなどできるのか?」
言いながらシャールは、常に檻の前から離れない監視の姿がないことに気付いた。急き込む様に衛兵は言った。
「これは私たち二人の思いではありません。シャール様を慕う者すべての思いです。仲間が監視の注意を他にそらしており、別の仲間が西門の所で待っています」
シャールはためらい、言った。
「それはありがたいが、こんなことをして、奴に知れれば君たちに迷惑がかかる」
奴とはもちろんルートヴィッヒのことである。もう一人の以前から見知っていた方の衛兵が代わって言う。
「もちろんそれは、覚悟の上です。しかし、シャール様をこのまま見捨てる訳には参りません」
シャールは衛兵を見つめ、彼の肩が小刻みに震えているのを知った。おとなしそうな性格を知っているだけに、勇ましいことを言っていてもピドナの実力者となったルートヴィッヒへの恐怖を隠せないのだろうと推測したが、絶好のこの機会を逃したくはなかった。シャールは頭を下げながら言った。
「かたじけない。君たちの勇気に甘えることにしよう」
衛兵はシャールのその律儀な仕草を見て何か言いたそうに口を開いたが、思い直したのかすぐに顔を伏せ、言った。
「では……急ぎましょう」
ごつごつとした石の階段を上り、シャールたちは暗闇にまぎれて王宮の庭を横切った。衛兵たちの言う通り監視の姿はどこにもなく、辺りは静まり返っている。
「こちらです」
怪我と拘束で衰弱しているシャールの体を気遣いながら、衛兵たちは宮殿の外壁へと向かう。壁の内側には厩舎が並び、馬場が広がっている。高い城壁の向こう側は急な斜面の雑木林となっており、斜面を下りると新市街地の西側に出ることができる。
柵沿いに馬場を過ぎ、わずかな灯りに照らされた、商人たちが出入りするための通用門が見えた。夜間は固く閉ざされている厚い扉は細く開けられ、衛兵たちの仲間なのか、扉の前に別の兵士が松明を持って立っているのが見える。以前から知っている方の衛兵が、傷を負っているシャールの体を支えるように横に並んでささやいた。
「新市街地はルートヴィッヒの手の者で満ちておりますが、旧市街と隣接した西北方角は手薄です。そちらへ逃げ延びられますよう」
「なに?」
聞き返したとき、扉の前に立っていた兵士が二人に歩み寄ってきた。
「よくぞご無事で。さあ、こちらです」
小声でうながしながらシャールに手を差し伸べようとした兵士に、ささやいた衛兵が突然、体当たりを食らわせた。もんどりうった男の手から松明が弧を描いて地面に落ちる。もう一人の衛兵を肘で殴りながら彼は叫んだ。
「早く、門から出てくださいっ」
驚くシャールの耳に、風を切る鋭い音が聞こえる。矢が射掛けられたのだ。衛兵はくるりと回り込み、自分の体を盾にしてシャールの身をかばった。門の外にシャールを押し出し、体の重みで扉を閉じる。
「すぐに御令嬢の元へは向かわず……」
その言葉を最後に、衛兵を内側に残したまま門は閉じられた。
門の向こう側から漏れ聞こえる男たちの怒声と、近づく鎧の擦れ合う音で、シャールはすべてを理解した。これは罠だったのだ。ルートヴィッヒはわざとシャールを逃がし、ミューズの元へと案内させるつもりであろう。門の外に押し出してくれた衛兵は、その罠に乗じる振りをしてシャールを牢から出してくれたのであった。
作品名:ブロークン・ウイング 作家名:しなち