ブロークン・ウイング
「旗を降ろし、使者を送りましょう。クレメンス軍として、最後まで恥のないように」
敗北の重苦しい雰囲気の中、持ち場に散っていく将校たちをすり抜けて、ようやく戻ってきた老将が、後方で待機している精鋭軍の元へ行こうとしていたシャールを捕まえ言った。
「シャール殿、お待ちなされよ」
呼び止められ、腹心の部下に自部隊への指示を与えてからシャールは老将と向き合った。陣は茫然とした混乱と舞い上げられた土埃に包まれている。すでにクレメンスの死を聞いたのであろう、苦渋の表情を浮かべながら老将はシャールに言った。
「貴殿はピドナに戻られよ」
目を見開いてシャールは老将の顔を見た。
「何をおっしゃいます。降伏は決まりましたが、将や部下たちの処置は未定です。私がここを離れるわけには参りません」
リブロフ軍が降伏を受け入れても、一族の者や主だった将は罪を免れないであろう。部下を置き去りにして、名の知れ渡った将であるシャールが一人逃げ出すわけはいかなかった。ましてや、クレメンスの遺骸から最後まで離れたくはなかった。
老将は首を横に振って続ける。
「逃げよと言っておるのではない、ミューズ殿を落ち延びさせよと言っておるのだ」
その名前を聞き、雷に打たれたようにシャールの体は硬直した。
「ミューズ様……? ミューズ様までもが責任を負わされるとおっしゃるのですかっ?」
老将は苛立たしげな口調でシャールに言った。
「そうではない、ミューズ殿に結婚を申し込んだルートヴィッヒが、クレメンス殿に一蹴され、恨みに思っているという噂を聞いたことはないのか?」
「まさか」
シャールは自分でもたじろくほどの動揺を覚えた。
「それは本当ですか?」
「嘘に決まっておるっ。もし本当であるならクレメンス殿はわしにも相談なさるだろう。奴はミューズ殿を見たことすらないはずだ」
怒鳴って息が切れたのか、老将は大きく息をついて言い聞かせるようにシャールに言った。
「しかし、本当に奴がミューズ殿をメッサーナ王妃にするとでも言えばどうなる? クレメンス殿を支持する人々もそれならばと納得するとは考えられんか? もちろん、父親を殺害し、無理やりにその娘を妻にすれば、人々は反感を抱く可能性も十分に考えられる。が、どちらにせよ、実際にルートヴィッヒがミューズ殿の美しさを目の当たりにしたら、よこしまな考えを抱くことは容易に想像できる。亡き奥方の面影を濃く残し、クレメンス殿がなによりも大事になされておったミューズ殿を、みすみす敵の手に渡すつもりか?」
その言葉に、押さえきれぬほどの激しい憤怒がシャールの体を貫く。そんなことは絶対にあってはならない。絶対に阻止してみせる。しかし、
「クレメンス様の遺体や部下たちを置いて、私がここを後にするわけには……」
「これは命令だ。命令にそむく者はこの場でわしが叩き切る」
老将はシャールの肩を掴んで、ゆっくりと言った。
「シャール殿、名誉を曲解なさるな」
歯を食いしばり、シャールはうなずいた。責任を取って死ぬことだけが、名誉ではない。
「ここもじきに取り囲まれるだろう。その前に逃げられよ」
うなずいてシャールは部下が用意していた愛馬にまたがった。老将はシャールを見上げて弱々しく微笑んだ。
「後のことはわしに任されよ。手が伸びる前に逃げてしまえば、ルートヴィッヒは自分の体面を保つためにもあきらめざるを得ないだろう。ミューズ殿はわしにとっても可愛い孫のようなものだ。どうか、よろしく頼む」
深々と頭を下げた老将に涙をこらえてシャールはうなずき、次の瞬間、馬の横腹を蹴って風のように駆け出した。
放たれた矢のように単騎で陣から飛び出したシャールは、丘を下り無人の野を駆け走った。途中、振り返ると、リブロフ軍はすでに平野の向こうから、地に満ちてくるようにその姿を見せており、喚声と馬蹄の響きがここまで聞こえてくるようであった。
徐々に速度を落とし、完全に馬を止めたシャールはじっとそれを見つめた。
様々な思いが胸を満たし、やりきれなかったのだ。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
慢心があったというのだろうか。
将としての責任として、今まで自分に命を預けてくれていた兵士たちの罪が少しでも軽くなるように命乞いをしてやりたいと思った。
が、すぐにその思いを打ち消した。ミューズを守らなければならない。
兵士たちの命と、ミューズの命の尊さを比べたわけではない。クレメンスを仰いで戦ってきた者たちに残された最後の希望が、ミューズの無事であるからだ。
迷いを振り切るように、シャールは手綱を握り締めて固く瞳を閉じた。
一瞬の後、再び開けられた瞳にはすでに闘いの炎が燃え上がっており、シャールは素早く馬首を返してピドナへと向かった――。
作品名:ブロークン・ウイング 作家名:しなち