二人と結婚式
日々人と結婚式
本当にお前はネジが足りてない。というのは呆れたときに言う六太の常套句だ。幼い時から幾度となく言われ続けたから今更何と思うこともないけれど、珍しく怒っている様子の兄から聞いてびくりと固まってしまったのは、幼いころからのすりこみだから仕方がない。首をすくめて兄の顔を覗き込むと、眉がいつもよりも寄せられていて不快の度合いを示していた。悪いことはしていない、と日々人は思う。六太をこれだけ怒らせた後も謝ろうという気が微塵も起きないくらい、日々人は後悔をしていなかった。仕方なかったなんてことは毛頭いうつもりはない。六太を怒らせてしまうのだって承知の上だ。それでも。
「幸せになってって俺言ったよ。」
「普通はな、そういう言葉は、今から結婚するってやつが言われる言葉なんだよ!」
無心でペダルをこぐ六太は前方を睨みつけながら叫んだ。道はゆるやかに蛇行し、住宅街を抜けていく。青々とした空を目に留めながら、日々人はおいてきてしまった荷物の行方を考えていた。中には、綺麗な宝石のようなあの子に渡すべきものがたくさん入っていた。どうだっていい、といってしまえるほど日々人は悪人にはなりきれない。けれども取りに戻る気も起きないまま日々人は空を見上げる、成人男性二人分の体重を受けて時々悲鳴にも似た軋んだ音を立てる自転車の後ろで、あの坂を登れば海が見える、といった少年の話をなんとなく日々人は思い出している。
今から二時間ほど前、日々人は空港にいた。電光掲示板を見上げながらトランク一個分の荷物と、航空券と、そんな日々人には不釣り合いなほどのたくさんの人に囲まれて。彼らはこれから日々人の家族となる家の使用人たちだった。
幼いころに親を亡くして、六太と日々人のもとに残されたのは首も回らないほどの借金だけだった。六太は日々人を守るためにその身を費やして、いろんなものをたくさん諦めてくれた。日々人にとって六太は兄であり父であり母だった。たかだか三歳しか違わないのに、六太は文句も言わず、ずっと日々人のために生きてくれたのだ。自由になってほしい、と日々人は願う。しかし現実がそれを許さない。借金は一朝一夕で返せるほど容易いものでもなく、二人が自由になるのはせいぜいあと二十年は先だった。
六太に背を押され半ば無理やり入った大学で日々人ははやる気持ちを持て余していた。どうするべきなのか、何をするべきなのか、結局答えは出なくて、アルバイトと学業を必死に両立する日々が続いたある日、日々人の専攻に一人の女の子が現れた。彼女は留学生で、とてもきれいな瞳をしていた。宝石をはめ込んだような色、それを褒めると彼女は照れたように笑う。何でも彼女はロシアの有数な資産家の一人娘らしく、何かと心配性な親の反対を振り切って大学へ行き、今回の交換留学の権利を勝ち取ったという。彼女は自信に満ち溢れた表情で笑い、私の人生は私が決めるの、といった。笑った彼女があまりにも美しかったから日々人はそうだねと返した。
彼女から結婚を申し込まれたのは、彼女がロシアへと帰る日のことだった。返事は後でいいと言ってそのまま飛行機に乗り去っていく後ろ姿に思ったのは、彼女と結婚すれば六太は救われるんだろうかという最低なことだった。日々人はもう、ずっと前から六太のことが好きだった。兄弟とか、男同士だとか、そんなこと言われても一切ゆるがないほど日々人にとって六太はすべてだった。だから、六太が救えるなら、この選択肢もきっと悪いものではない。六太以上の人間なんてどこにもいないけれど、人として、きっと彼女を愛することができると日々人は思ったからだ。出発の前夜、日々人は六太にすべてを打ち明けてから家を出た。
「幸せになって。」
扉を開けて日々人は言う。唖然として固まった六太の額にキスをして、日々人は好きだという言葉を飲み込んだ。六太は何も言わなかった。それが、昨日の話だ。
電光掲示板にはロシア行きの飛行機のナンバーが光っている。もうすぐ搭乗時間になってしまう。周りにいる彼女の使用人たちは、よくしつけられた犬のように従順で寡黙だった。日々人はほんの少しだけ六太が見送りに来てくれるかもしれないと期待していたけれど、いくらそちらの方を見つめても影さえ見えないことに落胆していた。そんな時だ。アナウンスの声が日々人を呼ぶ。お電話を承っております。アナウンスは日々人をゲートへと呼び、ついてこようとした使用人の一人を制して日々人はそこへ行った。相手が誰であるかぐらい日々人には想像がついていたけれど、取った受話器からは何の反応もない。あれ、と思って受話器を下ろすと横に立っていたはずの男が小さく背を丸め、しい、と唇に指を押し当てていた。見慣れた顔だった、少なくとも、誰よりも見つめてきた顔だった。
「ムッちゃん、なんで」
「逃げるぞ、日々人。」
六太はそういって日々人の手を取った。歩き出した六太について行きたくなくて、日々人は足を止める。自然と切れた手に六太は少しいらだったようだった。
「いかねぇ。」
「なんでだよ。」
「嫌だから。」
あほか、と六太は頭をかきながら吐き出した。
「俺は知ってるんだ日々人。何で結婚なんて選んだか。」
「じゃあなおさら、何で止めるんだよ」
六太が日々人の考えているすべてを知っているとは考えにくい。鈍くて、少しずれたところのある六太に、そういうことを期待するのを日々人は随分前から諦めていた。きっと六太は、日々人は金のために結婚するんだと思っているに違いない。それは当たっているようで的外れだ。日々人は六太のため以外に自分を費やしたりしない。
「俺に幸せになれってお前は言ったな。」
「言ったよ。それが?」
「俺の幸せにはお前の幸せも含まれてる。お前が幸せじゃないんなら、俺だって幸せじゃない。」
だから来い、と六太は言った。悪目立ちする似合わない変装で顔を隠して手を差し出してくる六太に日々人は怒ればいいのか笑えばいいのかわからなくなっていた。時間がない、と六太は言う。日々人と強く呼ばれて手を握ってしまったのは後から考えてみれば少し軽率な行動だった。
六太に手をひかれて人ごみに押されながら出口に向かう。開けた空の下、車で来てくれたのかと思いきや、そこにあったのは真っ赤な自転車だった。うそだろ?本気だよ。六太は赤い自転車にまたがると日々人を後ろに乗せて走りだす。そのころにはもう日々人は高らかに笑うしかなかった。世界は目まぐるしく変わり、脳幹を揺るがして眩暈を呼ぶ。何で自転車!と日々人は笑いながら叫ぶ。だってこれしかなかったんだよと六太も負けず叫んだ。それでも空港まで、あんなやり方で、くる前に何とかしてよムッちゃん!!仕方なかったんだよお前どこ行くか言ってかなかったから!!六太は向かい風に叫んだ。
久々に感じる世界は眩しくてきれいだった。他でもない六太がそばにいるからだ。六太は相変わらず不機嫌そうにペダルを踏んでいる。知りもしないで、と日々人は思った。けれど、ある意味それが救いだった。
「なんかさ」
「何」
「ここって世界の終りみたいだよね」