4月1日
星をひとつ
「目が回る」
すっかり寝静まった忍たま長屋。部屋に戻ってくるなりそう言い出した男に、呆れたと溜息が出る。
「三郎、まず土を払って。あと、君はいつから鍛錬をしていたか思い出せ」
見事に全身泥だらけの同室者は、汚い手で頬をこする。なんとも意味のない行為だ。
「……雷蔵、目が回る」
「そう。そこで座っていてよ」
一歩も中に入るなよと縁側を指差せば、しぶしぶといった風情で三郎の影が沈む。
それを横目で眺めながら、彼の着替えを用意する。このまま風呂場に連行しなければ、きっと睡眠欲を優先させるに違いない。そうして朝、部屋を掃除するのはこの自分。それは冗談ではない。
もちろん風呂の火はとうに消されているけれど、この寒空の下、冷たい井戸水で身体を拭くよりもまだ多少の温りをもつ残り湯のほうがマシというもの。だから無造作に床に転がる手桶を拾い上げ、最後に唐の籠に手を伸ばす。
「三郎」
「なに?」
部屋の外へ呼びかければ、気だるげな声が返ってくる。
誰かがこの同室者を猫だと喩えたことがある。確かに気まぐれで何を考えているかわかったものではないが、こうして声をかければちゃんと返事を返してくる辺りは律儀なものだと小さく笑う。
もっとも、返すだけの空返事なのが問題ではあるのだが。
「思い出した?」
「……何をさ」
開けっ放した障子戸の向こうで、影がぐらりと揺れる。
「君がいつから鍛錬をしていたかだよ」
まったく困った奴だと、籠から取り出した掌に収まる瓢箪を手に縁側へ向かう。
ごろりと転がったまま、大きな目で見上げてくる三郎。その頭上で、もう一度繰り返す。
「思い出した?」
「さあ…」
長い睫をしばたかせてはみるものの、考えてなどいないのだろう。普段は生真面目なのに、こういうときだけ大雑把なんだから。
それも彼特有の甘えだから、可愛いもの。もちろん僕自身も甘やかしているという自覚はあるから、こういうときは本当に困る。。
瓢箪の栓を外して掌に向かって傾けていれば、なに、と瞳が問いかける。答えずに掌に受けたそれを、膝を突いて唇に押し当ててやる。
「昼過ぎからだよ」
だから腹が減りすぎて目を回すんだ。そんな苦言もどこ吹く風で、三郎は与えられた欠片を口の中で転がしている。
「…………甘い。あめかい?」
ぺろりと唇を舐めて、もっとと唇を突き出してくる。それはまるで餌をねだる雛のよう。仕方なく、さらに数粒押し付ける。
「あめのはずがないよ……南蛮の菓子だって」
瓢箪の栓を締め、片付けようと立ち上がる。なのに唐突に伸びてきた手に腕を取られて、尻餅をつく。穴掘り小僧の異名をとる馬鹿力は、本当に馬鹿にならない。
ころりと掌から転がり落ちた瓢箪を拾い上げ、三郎は己の汚い手に中身を零す。
「ちょっと三郎!?」
「けちはよくない」
「けちじゃないよ。滅多にもらえないものだから、取っておこうと思ったのに……」
甘い星の形をしたという菓子は、甘味の塊。保存食として使えるし、こういうときにだって使える。
もちろん三郎がそんなことを気にするはずもなく、掌に取ったそれを無造作に口の中に放り込む。
ほとんど軽くなった瓢箪を、諦め半分で奪い返す。
「雷蔵」
「……なんだい?」
溜息を吐いて応えれば、汚い手がまた伸びてくる。背をそらせ逃げても追うそれは、人の頬に触れて。
「独り占めされたからって、拗ねるのはよくない」
「そうじゃないでしょ」
かみ合わない会話は珍しくないし、三郎が気まぐれなのもいつものこと。
一々、それに腹を立てていては、こちらの身が持たない。そう、身を寄せて触れてくる唇の甘さだって、一々気にしてなどいられないのだ。
「……何の真似だよ」
「おすそ分け」
呆れて聞けば、しれっと答えが返ってくる。それに一度小突くと、今度こそ立ち上がる。
「風呂に行こう。もう目は回ってないだろう?」
「さあ……」
「……いいからっ」
腰を蹴って促せば、しぶしぶといった風に立ち上がる。しかもこちらに寄りかかってくるものだから、せっかく洗ったこちらの身体も汚れてしまう。
それすら諦めるしかないと溜息を吐いて、大きな猫を抱えて歩き出した。