ゆらのと
「なにをバカなこと言っているんだ」
やはり小声で、桂は非難した。
それに怯まず、腕をつかんだまま、問う。
「時間、あるか」
桂は眼を見張った。
そして、その唇が動く。
しかし、それが言葉を発するのをさえぎって、言う。
「あるって、言え……!」
時間がない、とは聞きたくなかった。
つかまえた以上は放したくないし、こうして会った以上は離れたくない。
どうしても。
その想いに押されて、つい強い口調になった。
桂の黒い瞳が戸惑うように揺れた。
ついさっきまでは顔を強張らせていたのが、今は、妙に弱々しい表情になっている。
どう返事をすればいいのかわからない。
そんなふうに困っている様子だ。
桂は口を閉ざし、首を縦にも横にも振らない。
だから。
その腕をぐいっと引っ張り、歩きだす。
返事しないのは時間があるということ。
そう受け止めることにした。
自分勝手な解釈なのはわかっている。
時間がないと桂が言わなかったのは、そう言おうとしたのを、自分が邪魔をして、そう言わせなかっただけたということも、わかっている。
しかし、なにか急ぎの用があれば、桂ははっきりとそう告げただろう。
だいたい、時間がないのなら、橋の上で足を止めてユリカモメを眺めたりはしなかっただろう。
それに、今、特に抵抗せず、ついてきている。
歩きながら、道の左右にさりげなく視線を走らせ、ふたりきりになれそうな場所を探す。
そして、船宿を見つけ、そちらのほうに行った。
船宿に入る。
この船宿は、二階の部屋を代金を払う者に休憩所として貸している。
言葉のまま単に休憩する場として用いられることもあるだろうが、たいていの場合はそうではない。
逢瀬の場として使われることが多い場所だ。
部屋を借りたいと告げ、代金を払っているあいだ、隣にいる桂は一言も言葉を発さず、船宿の主人から顔をそむけ、うつむいていた。
その腕を引っ張り、二階に向かう。
階段をのぼる。
のぼりきると、ここの主人から教えられた部屋に行った。
部屋には、机が置いてあり、そして、その少し離れたところに布団が敷かれていた。
桂の手を放し、襖を閉める。
それから、桂のほうを見た。
桂に近づく。
すると、桂が少し後じさった。
臆しているわけではないだろう。
別れたのに元の関係にもどることを警戒しているのだろう。
それがわかっていて、あえて言う。
「今さら逃げんな」
足を踏み出す。
「てゆーか、逃げないでくれ」
頼んだ。
同情でもなんでも、桂の心を動かせるなら、いい。
距離を詰める。
桂は足を止めたままでいた。



