【静帝】 SNF 第四章
◇ メモリー・オブ・キス ◇ ― side 静帝 & トム ―
四度目の邂逅で、芽生えた恋情を自覚した男は、口ベタながらも懸命に朴訥な話し方で思いの丈を真摯に告げて、晴れて“愛し子”と恋仲になった。
勤務時間の不規則な労働に従事する男と、一介の苦学生との逢瀬はなかなか儘ならなかったが、それでも二人でうまく都合をつけては、時間の許す限りなるべく共に過ごしてた。
――これは、そんな初々しい恋人たちの間に起こった、ある夜の出来事…。
付き合い始めてまだ日も浅く、募る想いばかりが胸の内に降り積もり、訪ねるには少しばかり遅い時間だったが、どうしても一目顔を見たくなり、矢も盾もたまらず男は子供の住まいに足を向けた。
窓越しに部屋の明かりが見えた事に勇気を貰い、ためらいがちに小さくドアを叩けば、控え目な音を聞き漏らさなかった子供が、中から緊張気味に忍び声で「どちら様ですか?」と誰何してきた。
「夜分遅くに悪りぃ。その…すぐ帰っから、少しだけイイか?」
声を潜めて名乗った男に、子供は嬉しそうにドアを開けて、良識を欠いた不意の来訪を迷惑がるでなく、「すぐに帰るなんてつれない事言わないで下さい」と、笑顔で温かく迎え入れてくれた。
明日は学校が休みなので“夜更かしOK”なのだと、自分の方の状況を知らせてから、粉末ココアを溶かし込んだホットミルクを注いだマグカップを差し出して、男の方は大丈夫なのかと気遣う子供に、明朝は遅番の出勤だから問題ない旨を応えて、男は用意してくれたミルクをありがたく頂戴した。
一口飲み込んだ液体が胃を温めるだけでなく、胸の中までほっこりと優しい気持ちで満たしてくれる。
憩いのひと時に多幸感を噛み締めながら、男は愛しげに子供の姿を目で追った。
子供は…机の上に広げていた教科書を、さり気なさを装ってこっそり片付けてる所だった。
勉強の邪魔をしてしまった事に気付いた男が、愕然として詫び言を綴れば、子供は「期末試験は、まだ少し先だから…」とやんわり首を振って、大丈夫だから気にしないで欲しいと男を宥めた。
「一応、無理いって学費を出して貰ってる手前、それなりの成績は取らないとなモノで…。試験前に慌てたくないから、今のうちに軽く“おさらい”してただけなんです」
殊勝な言葉をさらりと述べた子供は、学生の本分を疎かにしないで真面目にこつこつ勉強し…更には、健気にも生活費まで自力で稼いで、質素で慎ましやかな切り詰めた生活を、それでも楽しみながら明るく胸を張って暮らしてる。
(…まだ、たった15のガキが、すっかり人生を達観しちまいやがって…。ホント、こいつは……。)
男の胸中に、遣る瀬ない哀憐の情と、それ以上に…堪らなく、愛おしいと想う気持ちが溢れる。
以前「そんなに頑張らなくてもいい」のだと、静かに男を諌めた子供にこそ、「疲れた時はちゃんと休め」と、言って聞かせてやりたかった。
無理はしてないか?と問うた所で、無自覚な子供は心身の疲労に気付きもせずに、平気な顔して大丈夫だと、屈託なく笑顔で応えてみせるのだろう。
性格も言動も…受ける印象すべてがおっとりしているくせに、のんびりした雰囲気とは裏腹に、変に生き急いでるみたいな子供の潔い生き様が、男は少し怖かった。
まるで、悔いを残さぬように毎日を精一杯生きてるようで…軽やかに走り去る子供の後ろ姿が、一瞬で吹き抜けるそよ風のあっけない儚さを思わせ、漠然とした不安で男の胸をかき乱した。
「…帝人…帝人…みか、ど……」
ちょこんと隣りに座り込んだ子供を、男は焦燥に駆られるまま腕を伸ばして横抱きに掬い上げ、膝に乗せた小さな身体を懐深くに抱え込みながら、その存在を確かめるように子供の名前を連呼した。
唐突な男の行動に、瞠目して一瞬子供は硬直したが、すぐに全身の力を抜いて緊張をほぐすと、そのまま大人しく男のしたい様にさせてやった。
どれくらいの間、そうしてたのか…男の気持ちが落ち着くまで、目を閉じてゆったりその身を任せていた子供が、夢うつつの浅い微睡みをたゆたいだした頃、男はようやく我に返って正気付いた。
混乱と動揺にあたふた取り乱しながら、ぎくしゃくした動ぎで前屈みの背筋を正した男は、恐る恐る腕の中にすっぽりと収まった愛し子を、決まり悪げに見下ろした。
「ふふっ、良かった…。あと5分遅かったら、本格的に眠っちゃうトコでした」
とろんとした夢心地な瞳で淡い微笑みを浮かべた子供に、男がしどろもどろの片言で衝動を抑えられなかった事を平謝りすれば、詫びる必要はないのだと伝えるように、子供は手を伸ばして尚も反省の言葉を紡ごうとする男の唇に、そっと人差し指を押し当てた。
「好きな人に抱き締められて、悦ばない恋人は居ないんですよ?静雄さん」
平静さを失った状態でも、無意識にちゃんと力加減してくれてる事が嬉しくて、「ああ…大切にされてるなぁ〜」って、実はちょっぴり自惚れてました。
面映ゆそうに頬を染めて、ふふふっと小さく笑声を漏らす子供に、とめどなく慕情が込み上げて…じんと男の胸を熱くした。
手にした物をいとも容易く破壊してしまえる己の怪力ぶりを知りながら、なぜ恐れもせずに男の腕の中で無防備に収まっていられるのか…子供の寄せてくれた全幅の信頼が、泣きたくなるくらい男は嬉しくて堪らなかった。
己の感じている愛おしさが伝われば良いと願って、男は子供の手首をやんわり掴み、唇に押し当てられた人差し指を、そっと咥えて舌先でくすぐるように舐めてみた。
動物的な男の愛情表現に狼狽して、顔を真っ赤に染めて固まった子供の当惑する瞳の中に、仄かな官能の火がともって揺らめいたのを抜かりなく見澄まして、うっそりと男の目が細められる。
シンプルな愛の言葉を囁いて、接吻の許しを乞うてきた男に、子供は緊張に震える睫毛を静かに伏せて、ゆっくりと顔を仰向けた――。
翌朝、遅番のシフトで出勤してきたトムは、ありえない光景を目の当たりにした衝撃に、ぎょっとして思わず跳び退き、動揺もあらわに声にならない悲鳴を上げた。
現実逃避をはかるべく、おもむろに取り出したハンカチで殊更丁寧にレンズを拭き、「どうか見間違いであってくれ…」と切に願いつつ、やおら眼鏡を掛け直したトムの視線の先では――鬱陶しい暗雲をどんよりと垂れ込めさせた男が一人、事務所の隅っこで肩を落として萎れてた。
(おいおいおい〜っ!何があったか知らないが…こりゃあ、今日は仕事にならねぇか…?)
本日の回収予定を脳裏に思い浮かべ、トムは「勘弁してくれ」とぐったりぼやいて項垂れた。
ところが…取り立てに向かった先々で、ついぞ見たことのない平和島静雄の“塞ぎ込んだ姿”に、恐れおののいた債務者たちが皆あっさりと支払いに応じてくれた結果、難航するかと憂慮していたトムの予想に反して、滞りなく課せられたノルマは達成された。
まさに『禍(わざわい)を転じて福と為す』とはこの事だ。…世の中、何が幸いするか分からない。
作品名:【静帝】 SNF 第四章 作家名:KON