実らずに終わった恋は、
***
プロイセンに指摘されるまでもなく、ハンガリー自身の状況は彼女が一番把握している。
分断され両端から他国の色に染められていく身体。生きた盾として、両国から体よく使われているこの状況。
(――エリザベータ、)
耳にやわらかな、優雅な声で彼女を呼ぶ、オーストリアという国は、高慢だがある種寛容な宗主だった。異民族たる彼女を形の上では支配しつつも、時折無防備に頼ってくるようなあぶなっかしい育ちの良さがあった。従来素朴で朴訥な彼女と彼女の民は、そんな彼ををどこか憎みきれないでいる。
(――エリザベータ。)
耳慣れぬ異国の響きを宿す深い声。オスマントルコの豊かな文化はブダの街を華やかに彩った。夕暮れになれば流れる穏やかなコーランの響きに、いつのまにか馴染んでしまっている自覚すらある。異教徒には容赦なく牙を剥く仮面の男は、一度懐に入れたものに関しては、時折驚くほど温かな情を見せた。
けれど。
(違う――違う、その名を、呼ぶな)(違うだろう、『ハンガリー』。なにをしている。この声が聞こえないのか)
草原の民の、自由を恋う熱い血が喚く。
独立を求め各地で起こるゲリラ軍の蜂起は止まず愛しい同胞は絶え間なく血を流す。
矛盾する無数の思惑が彼女の身体をバラバラに引き裂き、犠牲にされる無力な民の、苦悶と悲痛な祈りの声は止まない。逃げ出すすべも、選択の自由もない無限の地獄が彼女を内部から蝕みつづける。
そんな時、遥か北方で、のしあがっていくプロイセンの噂を聞いた。
稲妻のように、思い出した。
森の中での一瞬の邂逅。彼女の中でなにかが終わって、始まった、ささやかな――あまりにもささやかだからこそ、忘れられない、あのひととき。
あの時はふたりとも、名前を変えたりこてんぱんに負けていたりと、お互い情けない身の上で。そんな彼が、宗主国同士の争いの隙をついて着々と独立を勝ち取りつつあるという。聞けばなんとも生き汚く、ずるがしこいやり口。なりふり構わぬ悪どさは爽快なほどで、思わず笑いが漏れた。声を出して笑ってしまって、それで彼女は自分が久しぶりに笑ったことに気がついた。
発作的に、会いたいと思った。
「おい」
目を上げると、プロイセンが怒ったような顔で、貸したはずの毛布を付きつけるように差し出していた。
「俺はもういいからよ、お前が羽織っとけ」
つい先ほどまで昔のように他愛なく騒いでいたはずなのに、のばされた腕は昔とは全く違う太さで、我知らず、ハンガリーはしげしげと彼を見つめた。
むき出しの上半身には一片の無駄な肉もなく、月の明かりの下でくっきりと陰影を帯びた少年から青年へと向かい始めの身体は、しばしハンガリーの目を釘付けにする。
美しい、と思った。
――同時に、無性にむかむかと、腹がたった。胸の奥から得体の知れない熱がこみ上げる。
駆けることを止めないエネルギーに満ちた体。いつか、自分も手に入れることができると、信じていた理想そのままの。無意識に手を伸ばし、つかむ。引き寄せる。
「プロイセン」
腕に手をかけ、引き寄せたつもりの身体はびくともせず、逆にバランスを崩して抱きとめられる形になる。
驚いたように見開かれる赤い眼が、間近にあった。稀有なその色を覗き込み、綺麗だと唇を噛む。こんなにも大きくなったくせに、そこだけは子供の頃から何も変わらない、透明な瞳が、悔しい。悔しい。
***
「は、ハンガリー…?」
プロイセンは酸欠のように喘ぐ。突然腕の中に飛び込んできた彼女の細い肢体は、なにで出来ているのかと思うほど柔らかく、軽かった。何度も夢でイメージトレーニングしたというのに、その感触は想像をはるかに越えて、簡単に傷がついていしまいそうで、顎先に一撃をくらった時のようにクラクラと頭がくらめく。
このままでいて、と、小さく彼女の唇が動く。夢に見たそのままの光景。
逃げ出したい気持ちとめちゃくちゃに抱きしめてしまいたい気持ちで、心臓が破裂しそうで、プロイセンは混乱でだらだら汗を流しながら裏返った声でふんぞり返った。
「ななななななんだよ、ハンガリー。しおらしい顔しやがって!おおおおお俺様の、てて手下にでも、なる気になったのかよ!?」
ハンガリーは、しばしぱちぱちと目をまたたかせ、
「ああ――それはそれで、いいのかもしれないわね」
笑った。
作品名:実らずに終わった恋は、 作家名:しおぷ