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【静帝】 SNF 第六章 【完】

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 いずれ、帝人に迷惑を掛けてしまうだろう事は目に見えている。とてもじゃないが、人生の良き伴侶として、生涯を共にするのに似つかわしい相手とは、帝人を託してくれたお歴歴には認められまい。
 いざという時に安心させてやれる様な、頼り甲斐のある男にならなければ、焦がれて止まない想い人の傍に、末永く連れ添わせてもらう価値は無い。
 とはいえ、幾ら世渡り上手になろうと心掛けた所で、人付き合いの苦手な自分には、巧妙に立ち回る要領の良さなんて、一生備わりっこない事くらい、他でもない己自身が一番よく分かっていた。
 それでも…向上心を持って変わろうと意識する事は、少なくとも無駄ではない筈だ。
 そつの無いスマートな処世術を身に付ける事は叶わずとも、地道に一つ一つ短所を減らして、内面を磨き続ける努力を惜しみさえしなければ、今はまだ欠点ばかりの至らぬ若輩の自分でも、いつかは師匠のような包容力のある器のデカい男に、僅かなりとも己を近付けて行けるかも知れない。
(すぐには無理でも、その内きっと、おまえに何度でも惚れ直して貰えるような“イイ男”になってみせるから。見ていてくれるか?オレの事を。一番近くで、この先もずっと…。)
 この手を取ってくれた選択を、間違いだったと、絶対に後悔させたりはしないと、改めて誓う。
 ――帝人に誇れる、自分になりたい。心から強く、そう願った…。

 子供の頭に乗せていた顎を引き、やおら俯いた静雄が、祈りを捧げるようにそっと額を押し付ける。
 沈思黙考していた男が頭(こうべ)を垂れた気配をかすかに感じ、自己嫌悪に陥りがちな恋人の気分が塞いでしまったのかと勘違いした帝人は、慰撫するように背後から回された男の腕に優しく掌を滑らせながら、聞く者の心を和ませる穏やかな声音で、殊更のんびりと言葉を紡いだ。
「ね〜ぇ?静雄さん。物思いに耽るなら、僕の頭の上じゃなくて、せめて肩の所にしませんか〜?」
 ゆらゆらと頭を揺らして移動をうながす愛くるしい所作に、気負うあまり固く引き結ばれていた男の口元が、自然と綻び小さな笑みを形作る。
 おぶさる格好で首に縋っていた腕を少しだけ緩め、そろそろと腰を屈めて子供の肩口に顔を埋めてみれば、ゆっくりと伸ばされた片手に柔らかく髪を撫で梳かれた。
 子供の優しい手指の感触が心地好くて、うっとりと頬をすり寄せたら、くすぐったそうに首を竦めた帝人の唇から、楽しそうな笑声が小さく弾けて零れ落ちた。
 帝人が笑うと、嬉しくなる。嬉しいと感じたことが伝わるから、子供の纏う雰囲気が、一層ふわふわとした甘やかな幸福色に包まれる。
 共鳴する悦びの連鎖が、何よりも大切で愛おしかった――。

「…まだ、仕事残ってるから、もう行くな。その…今夜のお泊り会、楽しいモノにしような」
 腕の中の恋人に、今一度名残惜しげに軽く頬ずりしてから、男は抱き付いていた腕をゆっくりと離し、屈めていた背筋をピンと伸ばして、色ボケで弛み捲くっていた気持ちを引き締め直した。
 子供が期待を膨らませている『修学旅行』の疑似体験を、どこまで叶えてやれるか、学生時代にロクな思い出の無い己には些かハードルが高かったが、できる限り「ずっと憧れだった」という外泊気分を盛り上げて、楽しませてやろうと静雄は思った。
 自分に言い聞かせるように、飽くまでも今夜は《お泊り会》なのだと言明した男の横顔を、正臣は感慨深げな面持ちでしんみりと眺め入る。
(無邪気な悪意で人の気持ちを踏みにじる“あの男”と、悪気のない無邪気さで意図せず男心を掻き乱す“天然たらし”と、より性質(たち)が悪いのは、果たして“どっち”なんだろうな?)
 本当なら、ロマンチックな甘い一夜を過ごす筈だったろうに……。
 自身の切羽詰った欲望より、帝人のあどけない願いを優先させた男の心意気にいたく胸を打たれ、不覚にもホロリとさせられてしまった正臣は、心の中でひっそりと「頑張れよ、平和島静雄!」とエールを送って、男の英断をささやかに称えた。
「おうちにご招待して貰えて、すごく嬉しかったです。今夜はいっぱい、色んなお話をしましょうね」
 喜色満面で、心から楽しみにしている様子を伝えてくる愛し子に、できる事ならお話以外の“色んな事”もしたかった本音を押し隠して、男は穏やかに口角を持ち上げ、無言の同意を黙示する。
「…話は纏まったな?ぅんじゃあ、さっさと最後の回収済ませて、今日の仕事に切り付けちまうべ」
 頃合いと見て取った上司が、のんびりと水を向けてきた出発を促す声に、待たせてしまった事を短く詫びて、男はしなやかな身のこなしで一歩利き足を踏み出した。

 ――嗚呼、非常にディープだった昼下がりの悪夢から、これで漸く解放される…っ!!

 元はと言えば、帝人の『外泊宣言』に泡を食った正臣が、ついつい余計な口を挟んでしまった所為で、休憩を終えて辞去しようとしていた男達を、いたずらに長居させてしまう事になった訳だが…。
 そこら辺の己に不都合な事情はすっぱり棚に上げて、正臣がやれやれと安堵の息を吐いた丁度その時、何故か帝人がつと手を伸ばし、仕事に戻ろうとする男の纏ったバーテン服の後ろ身頃を、控え目に掴んで引き止めた。
 内緒話を仄めかす仕草で“背高のっぽ”な恋人の名を小さく呼び、腰を屈めて顔を覗き込んで来た男の耳元で、何かをひそひそと帝人が囁く。
 一体、どんな紛らわしい、意味深なセリフを聞かされたのやら……。
 明らかに動揺した素振りを見せる男に、更なる追い討ちを掛けるように、子供はふわりと淡く微笑んでから、どぎまぎして強張った男の頬にそっと唇を寄せて、母から教わったという“おまじない”のキスを、どこか神聖な儀式を思わせる敬虔な態度で、恭しげに一つ贈った。
 子供の奏でた「チュッ」という可愛らしい微音に続いて、不意打ちで《ほっぺにチュウ》攻撃を食らった男が、羞恥に「ボッ」と顔を火照らせた滑稽な擬音が、一拍遅れで聞こえた気がする。
(…帝人の母ちゃんは、男心をくすぐる乙女チックな“おまじない”の数々を、我が子に伝授する事の危険性を、まったく考えなかったんだろうか…。)
 彼女の名誉のために言わせて貰えば、母親が常日頃息子に見せてきた、あれやこれやの少女趣味な振る舞いを勝手に真似て、大の男相手に披露する息子の方に、むしろ問題があると思うのだが。
「あ、あれ?え〜っと…。もしもし、静雄さ〜ん…っ??」
 顔を伏せて、込み上げる諸々の情動と葛藤している気の毒な男に、自分が大胆な事をしたとはこれっぽっちも認識してない子供が、予想と違った反応におたおたと狼狽えて、当惑した声で呼び掛ける。
 暫しの沈黙の後、男は眩暈を覚えてふらつく額を片手でやんわり押さえながら、諦観の境地で「おまえにゃ、一生勝てねぇ気がする…」と力なく呟き、深々と溜め息を吐き出した。
 池袋最強の男に『完敗宣言』させる、天然たらしな最弱の子供。…実にシュールな光景だ。