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釣り人日記・余話

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そしてトロイは、今更ながら、本来ならば育ち盛りであるはずの彼の容貌や身長そのものが二年前と一切変わっていない事実に気がついていた。遠い昔学んだお伽噺のような物語が脳裏を掠める。曰く、この世の根幹をなすという真なる27の紋章というもの。そしてグレアム・クレイが探していたという曰く付きの紋章の存在。かの戦で幾たびか顕現したという紋章砲とはまた異なる絶大なる力。それを人の身をもって宿し宿主として認められたとしたら──

彼は一度死に、ある意味もはや死ねぬ体を手に入れた。引き替えに彼が失ったのはそれ以外の全てだったのだろうか。もはや誰も彼の側にいることはできないのだ。彼は側にいる者の存在を忘れ、そして時が過ぎれば本当にこの世から失われてしまう。
永遠の孤独、そして崩壊する自身を人柱としてとどめ置く場所として選んだのがこの閉じた生け簀だったのだろう。そしてもう、この少年は……どうして自身がこの生け簀に止め置かれているのか、その理由すらはっきりと認識していない。
ただ彼の中には強い義務感と諦めだけが澱のように止まり、ただ全てが朽ちていくに任せて、しかし必死で何かをつなぎ止めるかのように大量の魚拓だけが周囲に広がっているのだった。
涙を一筋こぼしたきり、彼はふらりと倒れ込んできた。膝が僅かに震えているのに気づき、彼はさて、いつからああして身を丸めていたのだろうかとその事実に思い至った。とさりともたれかかった体は想像以上に軽く、その事実に困惑し逆にトロイは僅かに足を後ろにずらした。がさり、と得体の知れぬ魚拓が踵に引っかかったが、構うものか。少年自身も気にした様子はなく、ぺったりと体を寄せて、ただそこにトロイという名の男がその場に実在している事を全身で確かめているようだった。
肉の落ちた足もやたらと細い。かろうじて歩く筋力だけは残っているようだ──恐らくは釣りのために歩いているからだろう。だが、無駄な肉は全てそげ落ちて、後はただああして身を丸めるばかりだったのだろう、かたかたと細かく震える彼の足にはあまり力が入っていないようで、本人はそれでも何とか力を込めようと努力している節が窺えた。
もういい、そう呟いて太股あたりを数回軽く叩くと、彼はようやく足から力を抜いた。そしてややこわばっていた身体からも力が抜けて、蚊の鳴くような声で彼は再び呟いた。
──どうしてここへ戻ってきた。

タコをどうやって食べるのか疑問だったが、捕まえた本人に尋ねると「茹でる」と簡潔な言葉が返ってきた。そういう彼の指先には結構な数の火傷の跡があり、……恐らく火をつける方法も忘れつつあるのだろう。そのうち彼は生の魚以外口にしなくなるのかもしれない。
あの猫は、干渉をできるだけ避けているようであったが、それはおそらく少年本人の希望であったろう事が互いの態度の端々から窺えた。残酷な身の上となった少年の身を心配する者も多かろう。そんな場所へ自分のような者が介入して良いものか、そんな事も考えながらトロイは慣れぬ手でタコを料理した。少なくともまともに立つ事もままならず寝台にへたり込んでぼんやりしている少年にまかせるよりはマシだろう。
よく見ると、魚拓の陰に隠れた棚にはそれなりの調味料が用意してあった。使った形跡も、ある。……ずいぶん時間が経っているようだったが。そういえば、当初自分が彼に救われた折に彼が用意してくれた食事は比較的まともなものばかりで、味もそう悪くもなかった。つまり彼はこうした調味料の使い方も、……恐らくはそういったものの存在も、忘れたのだろう。
うろ覚えながら、茹でたものを油で炒めて棚にあったいくばくかの調味料で味付けしてみる。一欠味見してみたが、我ながらそう悪い味でもなかった。食事というよりは酒のつまみに近い気がしたが、そこは仕方のない所だ。第一この粗末な小屋に酒などあるはずもなく、古びて虫のわいた穀物の袋が戸口近くに一つ転がっているばかりだった。彼がこの袋の中身を最後に口にしたのはいったいいつなのだろうか。
気づけば再び寝台の上で足を抱え込んでいる、そんな彼を半ば無理矢理屋外に連れ出した。小屋の前には平たい岩と小さな椅子が転がっていて、確かよくそこで二人食事をした記憶がある。あの頃は少年が料理を作っていたが、二年が経過した今では立場は逆になってしまった。
椅子に座らせ、彼の前に料理ののった皿を置くと、少年は急に俯きふるりと肩を振るわせた。また泣くのかと思ったが、ゆるゆると面を上げた彼の顔にはどこか寂しげな笑みが浮かんでいた。
「逆になっちゃった」
「……仕方が無かろう。もうお前には、無理だ」
「うん。無理だ。……これは何?」
「例のタコだ。ただ茹でるよりはマシかと思ってな。……フォークは使えるか?」
「何それ」
「いや、ならいい。……手が汚れたらこれで拭け」
絞った手ぬぐいを彼の前に置くと、少年は素直に頷いて手づかみで料理を口に入れ、ふ、と目元を和ませて美味しいな、と呟いた。そして手ぬぐいで手を拭き、また料理を掴んで、一口食べては手を拭く、という行為を延々と繰り返している。
「……最後に手を拭けばいいだろう。いちいち綺麗にしなくてもいい」
「ああ、そうか……なあ、トロイ」
「何だ」
「それがフォークというもの?」
トロイが手にしていたフォークを指さし、彼は尋ねてきた。……本当に全く知らない、未知のものを眺める表情で。
これはかつてお前が使っていたものだ、とは、とうとう言えなかった。

どうしてこの島に戻ってきたのか。漠然とした感覚ではあったが、まるで吸い寄せられるかのようにここに舞い戻ってきてしまった。かといってここに死ぬまで永住するという気持ちもなかった。ただ、もはや己は人でないと呟き目に見えぬ何かに囚われたまま朽ち果ててゆく少年にもう一度会いたかったのだ。
たった一度だけ彼を抱いた、その感触、彼が見せた表情や声までも、未だにはっきりと覚えている。……彼はそれを覚えているのだろうか。再会した直後、ぺたりと彼に抱きつき涙をこぼしたその表情がやや遠いけしからぬ光景のそれと重なり内心慌てた事に、恐らく相手は気づいていまい。
……もう一度会って、何をしたかったのだろう。
それはどこか漠然としていた。少年自身がこの場所に暮らし続ける事についてどう考えているのか、……ひょっとしたらそうした思考力すらも既に失われているのかもしれないが、その事を知りたいと思った。

太陽が海の稜線にかかり、世界は赤く染まっていた。そしてその色はゆっくりと、そしてある時点から急速に褪せ、周囲には太陽の名残が残る藍の薄闇が広がっていく。
件の石机のすぐ横に、焚き火の跡があった。こちらはまだ比較的頻繁に利用しているものらしい。木組みを作り火をくべると、座り込んだままぽかんと空を見上げていた少年がふらふらと近寄ってきて、ぺたりとトロイの真横に座り込んだ。そうして今度はぼんやりと炎が踊る様を見ている。蠢く陰陽が彼の顔に複雑な陰を作り、そうやって眺めて、彼の顔が非常に端正である事を今更ながら再確認する。もったいないな、と考え、何に対しもったいないのだろうかとすぐに頭の中で否定した。
そうしていると少年はふと隣に座りやはり火にあたるトロイの顔を見た。
「なあ」
作品名:釣り人日記・余話 作家名:滝井ルト