釣り人日記・余話
そんな事しなくていいのに、と惚けた事を呟いている本人の頭を一発叩いて黙らせそのまま処理を済ませ、とりあえず昨日作った例の料理の残りを二人で寝台に腰掛けたまま腹に収めた後交わしたのが先の会話だった。
「昨日はいっぱい、もらった。もう…忘れない。大丈夫。だから」
「だから私には海に帰れ、という訳か」
「……あんたは自由だもの。まだ人だ。俺みたいに、壊れていない」
「だが昨日からは、私が世話をしているな。こうして会話もしている。お前は一人ではない。食事もしたし、風呂にも…身体も洗って、夜はまあ…少々やり過ぎたが。お前一人では茹でた魚やらをそのままかじって水をかぶり孤独に耐えるのが関の山だ」
「………」
「お前の意見を聞いてみたい所だな」
「何を?」
「これまででもない、これからでもない。今。この瞬間。昨日私が訪れてから……たった今まで。お前は何を感じている?悲しいか?辛いか?……私を責めているか?」
少年は黙り込んだ。並んで寝台に座っている、彼はそのままぱたりと後ろに倒れ込み、痩せた両腕で顔を覆った。表情を隠すな、と言ってやりたかったが、それは彼のせめてもの意地なのだろうか。ふと思いついた事があって、トロイは一言付け加えた。
「嘘は禁止だ。絶対に許さん」
「……酷いな」
「酷くはない。正直に言え」
彼はのろのろと腕をどかし、頭の両側にそれをどさりと投げ出した。乱れた髪の下に、群島の海を映したかのような美しい色合いの瞳が、今はどこか切なげに揺れている。やや大きなその瞳を飾る密集した睫の端に、ゆるりと一粒水滴が溜まった。まるで再会した時のように。
「……嬉しかった」
「そうか」
「しあわせ、だったよ」
再び涙が彼の頬に筋を作り、彼は今度は片手で……黒い刻印が穿たれた左手で目元を多い、そのまま静かに涙を零し続けた。
決して忘れない。……そんな事、あるはずがないのだ。この二年間で、彼からどれだけの人間らしさ、知性、記憶、諸々が奪われていった事だろう。それでも彼は、あのたった一度きりの出来事をよすがにトロイの事を覚えていたのだ。……もはや、自分が所属した場所、己の名前すら無くしてしまったというのに。
「……私がここに来たのは、理由があった。自分でもよく分かっていなかった」
「…………」
「だが、ようやく分かった。恐らく面倒な事になるだろうが、……まあ、何とかなるだろう。彼らもお前の事が心配なようだ。悪いようにはしない」
「……どういう、こと」
「お前をここから連れ出すという事だ」
効果覿面とはこの事だろうかとトロイが内心呆れたほど、涙の跡を残したまま少年は恐ろしい勢いで飛び起きた。元々大きな瞳をさらに見開いて、愕然とした様子に内心の決意はさらに揺るぎないものになった。
「私が供にいれば、まあまあましな生活が送れるだろう」
「そう、だけど」
「嬉しくて、幸せだったのだろう?」
「う、うん、でも」
「他の場所にも行けるな。…もうお前は覚えていないだろうが、この島の外以外の…別に海でなくともいい、大陸にも行けるだろう」
「でも」
「たまには昨夜のような事があっても構わないかな」
その台詞を聞いて少年は一気に真っ赤になり、うつむいて「そうだけど」と呟いた。……まんざらでもないという事らしい。その件についてはさらりと流して、トロイは肝心の部分を彼に告げた。
「……共にいれば、忘れる事も無い。私の命が尽きるその日まで、お前は私の事を忘れる事は無いだろう……決して。何しろずっと共にいるのだからな。どうだ?違うか?」
その台詞を聞いて、少年はぽかんと口をあけ、しばらくしてからふるふると首を横に振った。
「違わない……」
「ならお前にとって不利な事は何も無い訳だ。準備もあるし、今すぐだと単なる誘拐だからちょっとした手続きも必要になる、その間はここで待っていてもらう事になるが……さて。どうする?」
少年は答えなかった。ただ、彼の瞳から再び新しい涙が零れたのを見て、昨夜のように舌と唇でそれを吸い取ってやる。そのままふ、と小さく溜息を漏らし目を細めた少年を見て、トロイは耳元で内緒話をするように囁いた。
「とはいえ、お前に実は選択権はない」
「……え?」
「もう決めた。必ずお前をここから連れ出す。ただ、お前自身がそれを望んでいるという言葉が……欲しかっただけだ」
至近距離で視線が重なり、そして少年はそのまま崩れるようにトロイに全身をもたせかけてきた。
「……あんたの事、忘れたくない。ずっと」
それが彼の答えだった。それを聞き、ふ、と笑うと、トロイは奇妙な縁になったものだと感じつつ彼の痩せた肩を軽く叩いてやった。
件のチープーなるネコボルトを仲介に始まった手続き、というかほとんど誘拐許可?だったが、想像以上にスムーズに進んだ。やはり少年自身がトロイと共にゆく事を望んでいる、というのが効いたらしい。実質上彼の保護者でもあったオベル王家は……というか、トロイはそこにきてどうやらそうらしいと言われている彼の本来の出自を聞かされたのだが……群島諸国諸地域に出回っている彼の手配を全て取り下げ、ついでに少年を連れている人間に関しては行き先行動等一切不問という証書まで作ってくれた。それらの知らせは群島諸国連合の盟主という立場を利用して諸地域全てに通達される、という事らしい。
だができれば別の大陸がいいだろうな、かの少年の顔を覚えている者も多い、というのがオベルの者達の意見で、トロイも概ねそれに賛成だった。
これ以上外の世界で生活するのが不可能になったら──それは主にトロイの健康や年齢という意味合いにおいて──速やかに彼の身柄をオベルに返す。それが、本来は少年の父親であったであろう男がつけた唯一の条件だった。
その日がいつ来るかは分からない。……それから先、彼は幸せだと笑う日はあるのだろうか。
今は考えても仕方のない事だ、と首を振ると、トロイは頭から被ったフードを少しだけ上げて視線の先に立っている少年の姿を眺めた。
彼の衣装もトロイと似たようなものだ。袖丈の長い上下の衣服、やや長めの上着、さらにフードつきの短いマントも羽織っていたが、彼はトロイとは違ってフードは後ろに跳ね下ろしていた。海風が吹き寄せ、今ではちゃんと切りそろえてある淡くくすんだ金髪がさらさらとなびいていた。彼の視線の先には、……海がある。ただしあの魚拓しかない寂しい孤島の視界だけに広がる海ではなく、その海の先にはここよりもずっと寒い大陸、広々とした大地があるはずだった。
ねえ、このまま海の果てまで行けるんだろうか?
そう呟いて、彼は振り返り、ごく自然な表情で笑った。彼は今幸せなのだろうか。トロイは歩み寄り、風で乱れた彼の髪を手櫛で軽く整えてやった。彼はされるがままだ。自身に生活する力や知性が残っていない事を、彼は知っている。残酷だとも思うが、まだそれが救いにもなっているのかもしれない。
もう、彼を生け簀に帰す事はすまい。……己の命のある限りは。
そのまま彼の髪を撫で、目を細める少年に、他の誰にも聞こえぬようそっと囁いた。
「ここは少し冷える。しばらく船室に戻った方がいいだろう、オーリ」
少年は……オーリはきょとんとしてトロイを眺めた後、それは誰、と呟いた。